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礼拝メッセージより
「ひとりじゃない」 2015年8月2日
聖書:出エジプト記16章1-15節
不平
いろいろな災いを経験し、ついにはエジプト中の初子が死ぬということになってやっとイスラエル人達がエジプトを出て行くことをファラオが認めた。そして遂にエジプトを出発したイスラエルの人たちだった。しかしファラオはまたイスラエルの人たちを出発させたことを後悔して、エジプト軍を率いて追いかけて来た。目の前には海があり、後からはエジプト軍が追いかけてくるという危機に直面したイスラエルの人たちは、こんなところで死ぬために俺たちを連れ出したのか、エジプトで奴隷をしいていた方がよかった、とモーセに詰め寄ったなんてことが書かれている。
そこで神は東風を吹かせて、海に乾いた土地が現れて、そこを渡ることでイスラエルの人たちは遂にエジプトから脱出して、エジプト軍の追っ手からも逃れることができた。15章の前半には、私たちは神に助けられた、神はすばらしい、とみんなで賛美したことが書かれている。
その後彼らは、マラというところに来た時には、荒れ野を三日間進んだあとで喉が渇いていたのに、そこには苦い水しかなくて不平を言った。この時にはモーセが一本の木を投げ込むと甘くなった、なんてことも経験している。
その後、エリムという泉のある場所のほとりに宿営していたが、そこを出発し荒れ野に向かった。そして2月15日、エジプトを出発した時を1月1日にしたようなので、それから45日位経ったころということになるみたいだが、エジプトから持参した食べ物もなくなってしまったということだろうか、みんな腹が減って仕方なかったようで、民はまたモーセに不平を言う。「エジプトで死んだ方がまだましだった。肉もパンもいっぱいあった。俺たちをこんなところで飢え死にさせるために連れ出したのか。」と言った。
イスラエルの人たちは、命の危険が迫ったり、喉が渇いたり腹が減ったり、いろいろと切実な問題が迫ってくると、その度に不平を言っているようだ。
応答
しかし神は彼らの不平を聞いてすぐに応えた。夕方になるとうずらが飛んできて、その肉を食べることができた。朝には、地表に薄くて壊れやすい霜のようなものがあり、それを食べることができた。イスラエルの人たちはそれをマナと名付けた。
マナはその日に必要な分だけを集めた。次の日まで残しておいてはいけないとモーセに言われていた。それでも残しておいた者がいたようで、次の日には虫が付いて臭くなった。しかし、六日目には二日分を集めることができ、その時には次に日になっても臭くもならず虫もつかなかった。まだ十戒は与えられていないので、厳密には安息日についての律法はまだないはずだけれど、安息日には、労働をしなくてもいいように準備されていたということなのだろうか、と思ったら15章25節に「その所で主は彼(モーセ)に掟と法とを与えられ」とさりげなく書かれている。それはとにかくそれでも何人かは安息日にもマナを集めにいったけれども見つからなかったことが書かれていて、どこにでもそういう奴がいたんだなと思うと面白い。
マナとは何なのか。注解書によると、この地方ではあぶら虫の一種がギョリュウ科の低木の果実に穴を開け、その樹液を吸って、黄白色の薄片や球状の分泌物を排出する。温暖な日中の間は分解してしまうが、冷温の時には凝結する。甘みを含み、でんぷん質や糖分が豊富で、今でもシナイ半島のあたりの人たちはそれを集めてパンのように焼くそうだ。しかもそれをマナと呼んでいるそうだ。イスラエルの人たちが食べたマナもそれだったのではないかと言われている。
最近ではマナは店で売られているらしい。森永のマンナはこのマナから名付けられたそうだ。
期待はずれ
イスラエルの民は最初はとにかくエジプトでの苦しみから解放されたいという思いで脱出したのだと思う。そして奇跡的にエジプトから逃れることができたことをきっと心底喜んだことと思う。しかし喉が渇いたり腹が減ったりするとエジプトに居たほうが良かったと不平を言い始める。
彼らはエジプトから脱出するとそこには楽園があると思っていたんだろうか。バラ色の毎日が続くと思っていたんだろうか。そこまで期待していなくても、苦難や心配とは無縁の生活を夢見ていたのではないかと思う。ところが現実はそうではなかった。そこで彼らはモーセに不平を言った。自分自身の責任において出エジプトを選択したという気持ちがあるならば後悔すると思うが、人の責任だと思う時はその人に不平を言う。つまり彼らはモーセ、あるいは神に勝手に連れてこられたというような気持ちがあるからこそ空腹の苦しみはモーセや神に責任があるということで不平を言い始めたのだろうと思う。全く期待はずれな出エジプトにイスラエルの人達は不平を言った。今日の聖書ですごいところは、そんな民の不平に神が応えているということだ。
ある牧師の説教に、このイスラエルの人達のつぶやきは私たちのつぶやきででもある、とあった。失業中の人が教会に来て祈っても職が与えられるわけではない、病気の人が信仰を持っても病気が治るわけでもない、信仰しても何も良くならないと言って多くの人が教会を去る、と言っていた。
教会に来たからといっても、神を信じると言っても、いい職場がすぐ見つかるわけでもないし、病気がきれいに治るわけでもない。私たちを取り巻く状況がころっと変わるわけでもない。
僕は高校を登校拒否していた時に全く知らない世界に対する憧れもあって教会へ行き始めた。というと格好いいけれど、苦しくて大変な時はいつも逃げたくて、その時も教会に逃げてきたようなものだった。でも教会に行きだしても登校拒否をしているという自分の状況は何も変わりはしなかった。苦しい状況がきれいになくなるなんてことはなかった。苦しみに立ち向かう強い人間に変わることもなかった。でも何だろうか、ひとりではなくなった。自分の苦しみを心底分かってくれるという神がいるんだということ、苦しみや不安や不平や不満をぶつけることができる神が共にいるということを知った。
祈り
聖書教育に面白いことが書かれていた。「神さまはイスラエルの人々の不平を聞かれました。ここに人間の命にかかわる叫び(祈り)を聞いてくださる神さまを知ります。」とある。不平は命にかかわる叫びであり祈りだということになると思う。不平も祈りなんだ。
今日の聖書の箇所で気になることがあった。モーセがイスラエルの人々に向かって、我々が何者なのかと語るところがある。我々とはモーセと兄のアロンのことだけれど、7節では「我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか」。また8節では「一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」とある。
モーセは自分の向かって不平をぶつけてくることに嫌気が射してこう言ってる様な気はする。どうして俺たちに不平を言うんだ、こうなったのは神の命令があったからだ、責任は神にある、文句は神に言え、そもそも俺に不平をぶつけることは神に言ってるのと同じだからな、と半ば脅迫しているような気もする。
でもモーセが語るようにその不平は神に聞かれ、その不平に神は応えたわけだ。聖書教育が言うようにこの不平は祈りだったのだ。
私たちが不平を言ったとしてもこの時のようにうずらとマナがすぐに降ってくると言うことはないだろう。けれども私たちの不平も神は聞かれている、私たちの苦しい状況も分かってくれているということを聖書は伝えているのだと思う。
神は私たちにはどう応えてくれるのだろうか。目に見えるような何かが与えられるということではないかもしれない。私たちが期待するような仕方ではないかもしれない。私たちがなかなか気付かないような仕方かもしれない。どんな仕方で応えてくれるのかは分からないけれど、神は私たちの祈りを聞いてくれている。不平、不満、苦しみ、嘆き、呻き、そんな私たちの祈りを神は聞いてくれている。
だから私たちはこれからは決してひとりぼっちじゃない。何があってもどんな時でもひとりぼっちにはならない。私たちの全てを受け止め全てを支えてくれる神が共にいる。