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礼拝メッセージより
「逃げ道」 2015年7月26日
聖書:出エジプト記14章5-31節
窮地
エジプトで奴隷として苦しい思いをしていたイスラエル人たちを救い出すために神はモーセを選び、エジプトの王ファラオと交渉するようにと命令した。モーセはさんざんごねていたが結局は神の命令通りにファラオのところへ出向き、イスラエル人たちを解放するようにとの交渉に臨んだ。しかしファラオはなかなか認めなかった。認めないと神が災いが起こる、と言っても認めなかった。川の水を全部血に変えるとか、蛙を大発生させる、ぶよやあぶの大発生、それから疫病を起こしたり、腫れ物ができるようにしたり、雹をふらしたり、いなごを大発生させたり、国中を三日間暗闇にしたり、ということがあってもファラオは認めなかった。
最後にエジプトで生まれた初子は全て死ぬという災いが起こり、鴨居と柱に血を塗っていたイスラエルの人たちの家はその災いが過ぎ越す、という事態になった。そこでやっとファラオはイスラエル人たちに出ていってくれといった。
そういうことでイスラエル人たちはやっとエジプトを出ることができることになった。13章21節以下を見ると、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされてので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」と書かれている。神が先立って昼は雲の柱、夜は火の柱で導いたというのだ。雲の柱とか火の柱が一体どういうものなのかよく分からないけれど、兎に角神の導きを直接感じつつ進んでいたのだろう。しかし昼も夜も行進したんだろうか。少しでも早くエジプトから離れたいという気持ちがあったのだろうと思うけれど、随分疲れたことだろう。
イスラエル人たちはエジプトを脱出できた、ということで最初は喜んでいたようだ。8節には意気揚々と出ていった、なんて書かれている。苦しい労働から解放されて、エジプトの主人の無茶な命令なんかも聞かなくてよくなった、そして自分たちの祖先の故郷、乳と蜜の流れる豊かな土地へ帰っていく、というような夢と希望を持っていたことだろう。
ところがエジプトの王ファラオはイスラエル人たちを去らせたことを後悔してしまう。そしてイスラエル人たちを連れ戻してもう一度働かそうということなんだろうか。エジプト軍は馬と戦車と騎兵と歩兵とで追いかけて来た。
エジプトの王が追いかけてきたことを知ったイスラエル人たちは、それまで持っていた夢と希望がいっぺんに吹き飛んでしまったようだ。出て行けと言われて、これでエジプトとは縁が切れて後のことは考えなくてよくなった、これからは前だけ向いて行こうと思っていたのではないかと思う。ところが後からまた追いかけてきたわけで、予想外の出来事だったのだろうと思う。
見えない神
イスラエルの民はファラオと軍勢が迫ってくるのを見てモーセに文句を言った。俺たちをこんな荒れ野で死なせるために連れてきたのか。前は海、後は軍隊、もう死ぬしかないじゃないか、だから俺たちに構うな放っておいてくれ、このままエジプト人に仕えて生きていく、そう言ったじゃないか。どうせこんなことになるだろうと思っていたんだ。そんなことだったようだ。
彼らはエジプトを出ていく前のいろんな災いも経験している、エジプトの初子がみんな死んだけれども、血を塗ったイスラエル人の家だけはその災いが過ぎ越していったことも経験してきたはずだ。そしてエジプトを出ていくときには大喜びしていた民だったようだが、エジプト軍を見た途端に嘆きとつぶやきに変わってしまった。
エジプトの王ファラオがいろんな災いを目にする度にイスラエル人を解放すると約束し、その災いがおさまるとすぐに心変わりをしてなかなか解放しなかった。しかし心変わりという点ではイスラエル人たちもファラオとよく似ている。それまできっと前を向いて乳と蜜の流れる約束の土地を夢見て喜んでいただろうに、エジプト軍を見た途端に、エジプトにいたほうがよかったと急に後ろ向きになってしまっている。状況が変わると言うこともころころ変わってしまうのはファラオもイスラエル人も同じようだ。自分の期待しようなことが起こると神は素晴らしいと言い、期待はずれのことが起こると神なんか信じないと言う。でもそれが人間の正直な姿でもあると思う。
イスラエル人たちはモーセの言うことを信じてついてきた。信じるというか納得してついてきたのだろう。いろんなしるしももちろん見てきたし、経験もしてきた。これは神の導きなのだというモーセの言葉に納得してついてきたのだろう。
しかし民には神が見えていたわけではない。神の声が聞こえていたわけでもない。神の声が聞こえるのはモーセなのだ。民はモーセを通して神の言葉を聞いているだけだ。これは神の言葉だというモーセの声しか聞いていない。
そんな民に神の導きというものがどれほど分かっていたのだろうか。彼らにはまるで分かっていないかのようだ。エジプトを出る前にもいろんな奇跡があった。神がそうしろと命じられているということをモーセが行っているということは聞いていただろう。神がイスラエル人をエジプトから脱出させる、ということも聞いていただろう。そしてそれが現実となったのだと思って喜んだ。しかしそれに対して困難が起こってくるとそんな喜びは吹き飛んでしまったかのようだ。
神の計画はイスラエルの民をエジプトから脱出させてカナンの地へと導くことだった。しかしそれは言わば天上の計画で民には見えない。民に見えるのは目の前にある海と、後からやってくる強力なエジプト軍なのだ。民にとっては絶体絶命の危機にしか見えない状況だ。
しかし神は夜もすがら、つまり一晩中東風を吹かせて海を押し返し、イスラエルの民はそこを渡りエジプト軍から逃げることができた。
逆境
前も後もふさがれてしまって逃げ道がない状態にイスラエル人は置かれた。そしてそこで彼らはつぶやいている。どうしてこんなことになるんだ。こんなことのなるためにやってきたのか。ここで死ぬために、惨めに死ぬためにここに来たのか。彼らはそう言っている。
しかしそんな逆境の中に神は逃げ道を作ったというのだ。作ったと言うより用意していたと言った方がいいのかもしれない。
イスラエル人を海の近くに導いたのも、ファラオの心を頑なにしたのも、そしてエジプト軍がイスラエル人に近づかないように真っ暗闇にしたのも、一晩中東風を起こしてイスラエル人が海の中の乾いた土地を行くことができるようにしたのも、すべて神がしたことだという。
しかしそれは人が神を知るためだったようだ。神の業を知るためだったようだ。
神はイスラエル人をエジプトから脱出させる。しかしそれは神がイスラエル人を神の手に載せて運び出すようにして脱出させたわけではない。海の中に乾いた土地を作ったのも、東風を使ってであった。またその風も、モーセが手を差し伸べることによって起こった。モーセを通して、自然的な力を通して神は働く。そしてその中を民は歩いていった。イスラエル人自身が歩いていくことでエジプトから脱出したのだ。
「恐れてはならない、今日主の救いを見なさい」(13節)とモーセは民に告げた。逆境の中にあってもそこで神の業を神の救いの業を見なさい、逆境の中に働く神をしっかりと見なさい、モーセは民にそう語る。今は神がその業を見せてくれる時なのだ、だからしっかりとその業を見なさい、そしてここからしっかりと歩いていきなさい、ということだろう。
しっかりと見ていないと見過ごしてしまうようなことを通して神は働かれるようだ。しっかりと聞いていないと聞こえないような仕方で神は語りかけるようだ。しかし神はしっかりとイスラエル人たちを支え守ってくれている。つぶやき不平を言うイスラエル人たちであるが、神は彼らを守ってくださっている。その神の守りの中をイスラエル人たちは進んでいった。
31節には、「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。」と書かれている。イスラエルの民はぶつぶつ言いつつも前進していった。きっと恐れつつ不安を抱えつつ海の中の乾いたところを歩いていったのだろう。そしてこの出来事を通して主とモーセを信じるようになった。神の守りの中を進んでいるのだということを噛みしめつつ歩いていったのことだろう。
逃げ道
私たちにも神の守りや導きは見えにくい。神の計画も見えにくい。恐れたり不安になったりつぶやくことが多いのが現実だ。もう駄目だと思うこともある。もうどうしようもない、絶望しかないと思うような時もあるだろう。しかしそんな時でも神は必ず逃げ道を用意してくれる、そのことを聖書は私たちに語りかけているように思う。神の声に従い歩き出す、そこに神は逃げ道を用意してくれている、だから神の声をしっかりと聞いて歩き出しなさい、私の用意したこの道を進みなさい、私はいつもあなたと一緒にいる、見捨てることはない、そう言われているように思う。
私たちにとって逃げ道と思える道が、ただの逃げ道ではなく、案外神が用意されたまっとうな道、王道なのではないかと思えてきた。
神の用意されたその道を神と共に歩いて行きたいと思う。