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礼拝メッセージより
「後悔また後悔」 2015年7月19日
聖書:出エジプト記13章17-22節
優柔不断
子どもの頃から優柔不断だった。
最近自転車は車道を通れと言われるようになったけれど、昔は車道を通るなと言われていたように思う。
中学の時は自転車通学だった。通学路には歩道があるところとないところがあって、車道も広くないので歩道のあるところは歩道を通っていた。でも車道の方が整備されているので走りやすかった。
ある時、帰り道に歩道のないところから歩道が始まる場所まで来て、歩道に入ろうかと思いつつ、でも車道の方が走りやすいなあと思ってどっちにしようかな、どっちにしようかなと思って迷っている間についに車道と歩道を分けるブロックに追突して転倒したことがあった。後の車の運転手から大丈夫かと声をかけられて恥ずかしい思いをしたことを覚えている。
回り道
やっとエジプトを脱出することができることになったイスラエル人たち。しかしそのイスラエル人を、神は迂回させた。ペリシテ街道には導かれなかったと書いてあるが、パレスチナの地中海側にペリシテという地域があって、ユダヤ民族はこの民族と度々いざござを起こしている。ペリシテ街道という呼び名は後の時代につけられた名前だそうだけれど、エジプトから地中海沿いにペリシテを通るその道を行けば、約束の地であるカナンまで300kmくらいの道のりだそうだ。一日30km歩いたとしたら10日、一日10kmでも一ヶ月程度で到着するくらいの距離である。でもその道を進むと言うことは強い民であるペリシテ人と戦う危険性があるということでもあった。そんな民と戦うことになると知ったらエジプトへ帰ろうとするかもしれないと神が思ったので、葦の海に通じる荒れ野に迂回させたと書いてある。しかしそのお陰で結果的には10日の道のりを40年も迂回したということになった。
ペリシテと戦わないようにしたのは良かったかもしれないけど、それに対する後悔はなかったかもしれないけど、40年も迂回すると知ってたらイスラエル人たちはエジプトから出てくることに賛成したんだろうか。
雲の柱、火の柱
イスラエル人にとってエジプトからの脱出はエジプトでの長く苦しい奴隷生活からの解放であったのでとてもうれしい出発であっただろうと思う。しかしそれと同時に、これからどうなるのかという未知なる世界への不安をかかえての出発でもあったことだろう。最初は嬉しいだけだったかもしれないけれど、その嬉しさもだんだんと減ってきて、その分将来に対する不安や心配が増えてきていたんじゃないかと思う。
神は昼は雲の柱をもって、夜は火の柱をもって彼らを照らしたと書いてある。当時、紀元前13世紀位、ラメセル2世という人がエジプトのファラオであった時代ではないかという説もあるそうだけれど、その時代に地中海のサントリニ島という島の火山が大噴火しているそうだ。火山が噴火すると噴煙の中に雷が起こることがよくあるけれど、その噴煙を目印にイスラエル人は進んだのではないかと考えている人もいるそうだ。
実際に雲の柱や火の柱がどんなものだったのかはっきりはしないけれど、それは神がそこにいるというしるしだった。昼も夜もその柱が民の先頭を離れることはなかったと書かれているように、イスラエルの民は昼も夜も神に導かれて、神のあとをついていったのだ。
約束
エジプトを脱出するということは重労働からの解放であり、また約束の地へと向かうためであった。しかしその約束の地へ向かう途中の道は途方もない大変な道のり、大変な苦しい旅だった。荒れ野の40年、なんて言われ方もするが、荒れ野を通り苦しみを経験する長い旅路だった。
しかも民には先のことがなかなか見えない。将来の栄光よりも、目の前の苦難の方に目が向く。なかなか目的地に着けない、希望の未来がすぐにはやってきそうもない、そんなことが少しずつ分かってくるとイスラエル人たちは、こんな大変なことになるなら来なければよかった、エジプトで奴隷として働いていた方がまだよかったということを言った、ということがこの後に書かれている。
しかしそんな風に後悔しつぶやいたり文句を言ったりしつつ、そこで神の導きを民は経験していったのだと思う。こんなことだろうと思ったから来たくなかったのだ、こんなことなら昔の方がよかったと言いながら、でもそんな情況の中でも神が導いていくというようなことを経験し、神に従うことを経験しながら神を知っていったのかもしれないと思う。
導き
神の導きとはそういうものだった。彼らを苦難のない別世界へと瞬間的に移すというような方法ではなかった。この世の苦しさや大変さのある中で、そこを耐える力、生き抜く力を与える、励まし支えていく、そんな導きだった。
苦しみや大変さがなく、思い通りに上手く事が運ぶことが神の導きとは限らない。そうであって欲しいと願うけれども、苦難の多いこの人生を生き抜く力を与える、こんな苦しい時にも共にいて支える、それこそが神の導きなのではないかと思う。
ぼろぼろになり、打ちのめされ、うずくまり、自分を責め、運命を呪い、神に悪態をつく、そんな時にも決っして見捨てない、それが神の導きなのではないかと思う。
後悔
何か新しいことを始めるという時はその分危険がある。うまくいけばいいけれども、ちょっとうまくいかなくなると後悔する。こんなことしなければよかった。始めなければよかった。なんてことを思う。こんなことしないであのまま続けておけばよかった、なんてことを思うことも多い。
仕事を変わるとかいうような時もきっとそうだろう。大変なことがあると、昔のままの仕事をしておけば今頃は、なんてことを思うこともある。牧師になんてならなくて、そのまま会社にいたらどれくらい給料もらっていただろうか、なんてことを思うことがある。でもそうしたら今頃はリストラされて無職かもしれないと思って自分を慰めている。
最初に言ったように僕は昔から優柔不断で選択をすることが苦手だった。苦手というか恐いと言った方がいいのかも。間違った選択をしたくない、間違ったらどうしようという恐れが強くて結局選択できないという感じ。
ある時、人間は選択をした瞬間から後悔が生まれる、というような話しを聞いた。見たのかな。どちらかを選んだ瞬間からこっちで別の方が良かったんじゃないかという気持ちが生まれると言っていた。それを聞いてものすごく納得して安心した。後悔することが悪いことのように思っていて、後悔しない選択をしようとしていた、だから結局自分で選択できないでいた。でもそれを聞いて後悔してもいいんだ、後悔するものなんだと思えてとても安心した。
PKを失敗できるのはPKを蹴る勇気を持っているものだけだ、という話に似ている。似てないかな。
エジプトを出て約束の地へと向かうイスラエルの民の歩みは、私たちの人生の縮図のような気がしている。うまくいけば有頂天になったかと思えば、問題がおこると後悔ばっかり、文句ばっかりの民だった。それは全く私たちの人生そのもののようだ。
しかし神がそのイスラエルの民にずっと寄り添ったように、この神は後悔ばかりの私たちにもずっと寄り添ってくれている、この出エジプトはそのことを私たちに伝えてくれているように思う。
何があっても見捨てない、どこまでもどんな時でも寄り添ってくれる、共にいてくれるそんな徹底的な自分の味方がいることを知ること、そこに私たちの人生を支える力が湧き上がってくるのだと思う。