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礼拝メッセージより
「原点回帰」 2015年7月12日
聖書:出エジプト記12章29-42節
災い
モーセはイスラエル人をエジプトから脱出させるためにエジプトの王、ファラオのもとへ行き交渉する。しかし神から言われていたとおりその交渉は成功しない。ファラオは心を頑なにして、余計に辛い仕事をさせる。そうするとイスラエル人はモーセに対して不満をつのらせる。
そこで神はいろんな災いをエジプトに下す。川の水を全部血に変えるとか、蛙を大発生させる、ぶよやあぶの大発生、それから疫病を起こしたり、腫れ物ができるようにしたり、雹をふらしたり、いなごを大発生させたり、国中を三日間暗闇にしたり。
そんなことが本当にあったのかと思うけれど、ナイル川は6月から7月にかけて水量が増して氾濫し水の色が変わり、8月には赤みを帯びて血の色になるといわれているそうだ。上流から流れてきた泥土が赤ナイルと呼ばれるほど川の色を変えて、そのために魚が死ぬこともあるそうだ。またナイル川の大反乱によって蛙の卵が全土に運ばれて9月頃には蛙が異常繁殖し、大量の蛙の死体が腐敗して今度はブヨやあぶが発生する。またナイル川の水が減ってくると衛生状態が悪化して皮膚病が起こりやすくなる、というようなことを書いている説教もあった。雹が降ったりイナゴが大発生したりすることも時々聞く話しだ。
また初子の死についても詩編78:49-51には「神は燃える怒りと憤りを、激しい怒りと苦しみを、災いの使いとして彼らの中に送られた。神は御怒りを現す道を備え、彼らの魂を死に渡して惜しまず、彼らの命を疫病に渡し、エジプトのすべての初子を、ハムの天幕において、力の最初の実りを打たれた」というふうに疫病のためだと書かれている。そうするといろんな災いがあったからと言っても、それがすぐに神によって起こされたことなのかどうか分からない、と思ったとしても無理はないという気はする。
ファラオは災いが起こって大変な事態になるとモーセの言うことを聞く、といいながら、ちょっと事態がよくなり一息つくと、やっぱり駄目だ、というようなことを繰り返す。
ファラオがなかなか言うことを聞かないのは神さまがファラオをかたくなにするからだと言われていて、最初から分かっていたことかもしれないけれど、でもやっぱりモーセにとってはつらいことだったのではないかと思う。モーセは神が言われるようにただそれに従っていただけかもしれないけれども、それでも、ファラオに会いに行くのはモーセ自身であり、アロンが代わりに語ったのかもしれないけれども、そのアロンに語ることを告げるのもモーセだったはずだ。神との直接繋がりがあるのはモーセだけだった。そしてイスラエル人をエジプトから救い出すためにファラオと交渉しているのに、なかなかうまくいかないわけだ。
自分のやっていることの成果がなかなか目に見える形で現れない時ってのは不安になったり自信をなくしたりする。もともと神はファラオの心を頑なにする、と言っていたからその通りになっているのだろうけれども、本当にエジプトを脱出できるのだろうか、というような思いにもなったんじゃないかと思う。
神さまはなんでそんな大変な思いをモーセにさせたのだろうか。モーセを鍛えたのだろうか。あるいはその後、約束の地へと向かう苦難の旅を耐え抜くための準備だったのだろうか、なんて思ったり。しかしモーセも投げ出さずによく耐えたよなと思う。やっぱり最初に散々ごねてたのが良かったんじゃないだろうか。そんなことできない、こんなことになったらどうしよう、やっぱり他の人にしてくれ、とその時に散々ごねて目一杯弱音を吐いたことが良かったんじゃないだろうか。
そして最後に、エジプト中で初めて産まれた子、人間も家畜も何もかも、初めて産まれた子が死んでしまうという災いを起こす、と神は言う。そしてやっとイスラエル人はエジプトを脱出することができる、というのだ。
しかし柱と鴨居に小羊の血、あるいは羊や山羊でもいいと書かれているが、その血をぬっている所だけは、その災いに遭うことがない、そこだけは災いが通りすぎでいく、過ぎ越していくと神は約束される。
こういうところを見ると、神さまが町の中の通りを歩いているようなイメージが湧いてくる。通りを歩いて血が塗られているかどうかを一軒一軒見てまわっているかのような感じがする。兎に角血が塗られているイスラエルの家はこの災いが過ぎ越していった。しかし血が塗られていないエジプトの家では初子がみんな死んでしまった。そしてファラオは、お前達はエジプトから出て行ってくれ、と言ってついてエジプトを出ることができるようになった。
記念
そしてこのことを記念として過ぎ越しの祭りをおこなうように、と神が言ったと12章の前半に書かれている。毎年そのことを思い出すために祭りを行うように、という。これこれこういうことがあって私たちは助けられた、救われたのだということを次の代の者へと語り伝えなさい、というのだ。さんざん苦労したけれども、神はそんな自分たちを見捨ててしまっていたわけではない、そのことを後世に語り伝えなさい、そして記念の祭りを行いなさい、と言われる。
こういう風に記念の祭りを行いなさいと言ってから実際の出来事が起こったというのは変な書き方だと思う。普通これこれこういうふうなことが起こりましたと書いて、そのことを記念してこういうふうにしなさいという順序にした方が自然な気がするけれども、12章は結局は過越祭をやっている理由を説明している箇所ということなのだろう。
つまりエジプトで奴隷として苦労して生きてきた自分達の先祖の悲鳴を神が聞き助けてくれた、モーセを通してエジプトから救い出してくれた、そのことを忘れないために過越祭を行うということだ。この過越祭を通して神が自分たちを見捨てはしない、必ず助けてくれるのだ、ということをユダヤ人たちは思い出してきた。
原点回帰
ユダヤ人たちはその後いろんな苦難にあった。そしてその度に出エジプトの出来事を思い出してきたようだ。苦しみの中にあるとき、うまくいかないことばかりが起こるような時、私たちを支えるのは何なのだろうか。
先日のラジオでこんなことを聞いた。ある番組で一人の人のメールが紹介されていた。その人はお母さんから厳しく家事を教えられて、その時はつらかったけれど結婚してからは姑さんからも認められて良かったということだった。それを聞いていた番組のキャスターが、私は母親から厳しく教えられなくて何もできない、けれどいつも愛してもらったからどんな辛いときでも自信をなくしたことがないだったか、自分を駄目だと思ったことがないだったか、というようなことを言っていた。
ユダヤ人たちにとって出エジプトというのは自分達の原点となっていたようだ。苦難に遭ったときには殊更、あの時自分達は守られた、助けられた、苦難から助け出された、神は見捨てなかった、ということが彼らの支えになっていたようだ。
私たちも神に愛され守られ共にいてくれている。イエスは、神が私たちのことをどれほど大事に思い、どれほど大切に思い、どれほど愛しているのかを伝えてくれた。ラジオのキャスターのようにいつも自信を持つことはできないし、自分を駄目だと思うことも多い。けれど愛されていることを思い出すことで少しの元気が出る。一歩を踏み出す力が出る。その一歩一歩が私たちの人生を作っていく。
聖書の言葉、イエスの言葉を聞くことで私たちは一歩ずつ一歩ずつ生きていきたいと思う。そこが私たちの原点であり、私たちが帰ってくる所なのだと思う。