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礼拝メッセージより
「紆余曲折」 2015年7月5日
聖書:出エジプト記5章1節-6章1節
日干しレンガ
日干しレンガは、粘土などをわらや動物の糞と水を混ぜ、それを型枠に入れて形を整え、すぐに枠をとりはずして日なたで乾燥させて作るそうだ。わらや糞をまぜることで、その繊維質がつなぎとなってかなり強くなるそうで、このレンガで建物を作っていたそうだ。雨も少なくそのために木材も少ない地域では古くから日干しレンガが建築材料だったようだ。
この日干しレンガは、熱容量が大きいそうで、ゆっくり熱せられてゆっくり冷めていくので、砂漠などの昼と夜の温度差の激しい地域では、屋内の温度差を和らげてくれるという特徴もあるそうだ。
そういうことで結構大きな建物もレンガで作られていたそうだ。
悲鳴
エジプトで暮らしていたヘブライ人たちは、日干しレンガを作る仕事に従事させられていたが、あまりに重労働であるという悲鳴を神が聞き、彼らを助けるためにモーセをエジプトへ呼び戻したというわけだ。
しかしモーセは神からの、お前がイスラエルの民をエジプトから導き出すんだという声に二つ返事で応えた訳ではなかった。逆に、どうして自分なのか、誰か他の人をなどど何度のなく拒否していた。しかし神は全く譲らず結局モーセはその言葉に従ってエジプトへと戻っていった。
かつてモーセは、王宮で王女の下で育ったけれども、理由は分からないが自分がヘブライ人だと知り、自分と同じヘブライ人を酷使していたエジプト人を殺したことがあった。ヘブライ人でありながらエジプト人の王女のもとでエジプト人のように育ったわけだ。しかし自分がヘブライ人だということを知りヘブライ人の仲間になろうとしたのだと思う。そこでヘブライ人に受け入れて欲しい、簡単にはいかないかもしれないけれど、その時にはヘブライ人のためにエジプト人を殺したということを伝えればという気持ちもあったんじゃないかと思う。しかしヘブライ人同士の喧嘩の仲裁をしようとしたところ、ばれていないと思っていたエジプト人殺しもばれていて、そのことを好意的に受け入れてくれるという淡い期待も空しく、逆に俺たちも殺すのかと言われてしまう。
ヘブライ人の仲間に加えて貰い、ヘブライ人として生きようという目論見はもろくもくずれてしまい、行き場のなくなったモーセは失意の内にミディアンへと逃亡した。その土地で祭司の娘と結婚し子どもも産まれたが、舅の羊を飼うという仕事をしながら暮らしていたようだ。
そんなモーセに神は声をかけたわけだ。ちょっと待ってくれ、どうして俺なんだ、どうしてそんなことしないといけないのか、と言うのも無理ないなあと思う。エジプトから逃げてきて挫折感と無力感を味わいつつ、舅の世話になりながら細々と暮らしているようなモーセにとって、イスラエル人たちをエジプトから導き出すなんてのは全く無理難題としか思えなかっただろうと思う。俺にできるわけないだろうということだろう。だからこそ神に対して何度もなんども反論している。
エジプトへ
それでもどうにか重い腰を上げてエジプトへ行き、ついにファラオと交渉することになった。それが今日の聖書になる。
モーセと兄のアロンの二人はエジプト王ファラオに、イスラエルの神、主が民に荒れ野で祭りを行わせないと言われた、と言った。宗教的な儀式を行わせなさい、とファラオに対する命令があった、と言うのだ。
しかしファラオは、主は何者か、イスラエルを去らせはしないと拒否する。二人は、犠牲を献げないと滅ぼされるでしょうと脅しにも似たことを言うが、結局ファラオはイスラエルの民が怠けたいからそんなことを言っていると考え、他の国から来ている労働者たちへの見せしめもあってだと思うけれど、レンガを作るためのわらを、今度からは自分達で集めさせろ、けれども作る量は減らすなと命じる。
「追い使う者たち」と言われるエジプト側の監督は、イスラエル側の下役の者たちに、どうして今までと同じ決められた量を作らないのか、と言って暴力を振るった。イスラエルの下役の者たちはファラオ自身に、わらがないのにれんがを作れという命令が間違っていると訴え出たが、ファラオは聞く耳を持っていなかった。
イスラエルの下役の者たちは、モーセとアロンに、お前たちが余計なことをしたから苦しい状況になってしまったじゃないかと文句を言った。そこでモーセは神に、あなたの命令通りにしたのに民は苦しくなるばかりだ、と文句をいった。
3章19節以下を見ると、モーセが最初神に命令されたときに既に主は、自分が驚くべき業を行うことで始めて王は民を去らせる、と言っていたがモーセはそんなことはすっかり忘れていたのだろうか。
主はモーセに、今からわたしがファラオにすることを見るだろう、ファラオは民を追い出すだろうと言った。そんなに焦るな、これからが本番だ、とでも言ってるようだ。
紆余曲折
神の言葉を聞くのは専らモーセだ。モーセだけが神の言葉を聞きそれを民に伝えている。民にとってモーセの語ることが本当に神の言葉なんだろうか、本当にその言葉に従っていいんだろうかという気持ちはぬぐえないものがあるんだろうと思う。だからちょっとでも思い通りに行かなくなると文句を言うんだろう。
その文句の矛先はモーセに向かうことになる。あんたの所為だ、あんたが神の命令だとか言って余計なことをするからこんなことになってしまったじゃないかと言うわけだ。
モーセはそんな民に言い返す訳ではなかった。民に向かって、神がこう言っているんだから大丈夫だと答えたわけではなかった。モーセ自身も疑心暗鬼なのではないかと思う。本当に大丈夫なんだろうか、神は本当に約束を果たしてくれるのかという気持ちもやっぱりあったんじゃないかと思う。
それと同時に、本当に自分でいいんだろうか、やっぱり自分は駄目だという気持ちも大きかったんじゃないかと思う。
でもそんなモーセがイスラエルの民を導いてエジプトを脱出することになる。やっぱり駄目なんじゃないか、どうしてうまくいかないのか、と落ち込み嘆くモーセを主はひたすら励まし続けた、出エジプト記は自信のない、疑心暗鬼になるモーセを神が励まし続けた記録なのかもしれないと思う。そんなモーセを通して、神は遠大な計画を実行したということだ。
私たちの人生はなかなか思うようにはいかない。思うようにいかない、願った通りにならなことも多い。そんな時私たちも目の前の出来事に一喜一憂してしまうのではないか。ちょっと良いことがあったり思い通りに事が運んだりすると、神に守られた導かれた、やっぱり神はいるんだ、なんて思う。でも思い通りにいかなかったり、苦しいことが起きると、どうして神は助けてくれないのか、神はいないのかと思ったり、あるいは自分の無力さや無能さを嘆いたりするのではないか。
でもすぐ疑心暗鬼になり下を向くようなモーセを通して神は偉大な業を行った。そして神は私たちを通してもそれぞれに計画を持っているんだろう。
だから目の前の出来事だけではなく、それを包み込む神の計画にも目を向けて生きたいと思う。自分の無力さやだらしなさについつい目を奪われてしまうけれど、そんな自分と共にいてくれている神に目を向けていきたいと思う。
神はモーセに「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。」(6:1)と言って励ました。
これからだ、今からだ、大丈夫だ、期待して待っていなさい、あなたは私の偉大な業を見ることになる、神は私たちにもそう言われているのではないか。
この言葉は、なかなか期待するようなことが起こらなくて、うまくいかないことばかりで、自分の無力さやだらしなさに押しつぶされそうな自分に対する言葉のような気がしている。
私を見なさい、私の声を聞きなさい、私に期待しなさい、神はそう言われているように思う。