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礼拝メッセージより
「必ず共に」 2015年6月28日
聖書:出エジプト記3章1-15節
40年?
モーセは自分の同胞であるヘブライ人を虐待していたエジプト人をひそかに殺害したつもりであったが、そのことがヘブライ人にも、そしてエジプトの王であるファラオにも知れ渡ってしまったため、紅海の向こう岸のシナイ半島からさらにアカバ湾を越えた先にあるミディアンへ逃げていった。
そしてレウエルの娘ツィポラと結婚しゲルショムをいう息子もできた。その後長い年月がたち、自分の命を狙っていたファラオも死に新しい王の時代となっていた。
3章ではなぜか義理の父親の名前がエトロと変わっているが、エトロはミディアンの祭司で、モーセはそのエトロの羊の群を飼っていた。ある時モーセは燃え尽きない柴の中から神の声を聞いたというのが今日の聖書の箇所だ。
余談だが、聖書教育にも他の人の説教にもミディアンに来てから40年がたっていたと書かれている。でも出エジプト記には40年とは書かれていないと思う。どうして40年だと分かるんだろうかと思った。
7章7節には、モーセがその後エジプトに帰ってファラオと会ったのが八十歳と書かれている。でもエジプトで殺人事件を起こしたのは、2章11節ではモーセが成人したころとしか書かれていない。何で40年だと分かるのだろうかと思っていたら、新約聖書の使徒言行録のステファノの話しの中7章30節に、四十年たったとき柴の燃える炎の中で天使がモーセの前に現れた、と書かれていた。
ステファノは何を根拠に40年と言っているんだろうか。出エジプト記に出てくるんだろうか。それはそうとミディアンに来てから40年でファラオに会うのが80歳ということは、殺人事件を起こしたのは40歳ということになる。2章11節ではモーセが成人したころと書かれているけれど、随分とイメージが違うなあ。
ついでに、その後出エジプトしたイスラエル人たちが約束の土地へ入るまで40年放浪し、モーセは約束の土地をへ入る直前に死ぬことになる。申命記の最後34章7節にはモーセが死んだとき120歳だったと書かれている。
エジプトで暮らしたのが40年、ミディアンで40年、放浪生活が40年ということになる。ちょっとわざとらしいという気もする。
召命
それはともかく、モーセが神の召命を受けたのは80歳のころだったらしい。神は燃えるけれど燃え尽きない柴からモーセに語りかけたとある。真っ赤に見える柴があったのだろうか。
神の言葉は、苦しめられているヘブライ人を救うためにお前をファラオのもとに遣わす、と言うことだった。
人生の三分の二を過ぎた頃だった。決して若くはない、もう老人と言った方がいいような年齢だった。しかも自分が逃げてきたそのエジプトへ帰り、代替わりはしているとは言っても、絶大な権力を握っているファラオに対峙しろというのだ。そんなこと言われても、という気持ちになるのが当然だろうと思う。
最初のモーセの返事は3:11「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」というものだった。
本当は、何を馬鹿なことを言ってるんですか、というのが正直な気持ちだったんじゃないかと思う。
わたしは何者でしょう、というのは要するに私には何もないということだろう。何もない、そんな大それた事をするような力も何もないということだ。何もない自分をどうして、それがモーセの気持ちだったのだろう。
神はそんなモーセに、「わたしは必ずあなたと共にいる。そのことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」と言った。
どうしてこんなこと言ったんだろう。ちぐはぐな答えだな、というか答になってないという気がする。どうしてモーセがイスラエル人を導き出すのかという理由はここにはないように思う。そもそも自分を遣わすしるしは何なのかと聞いたわけでもない。
神はただ、わたしは必ずあなたと共にいると言うだけだ。これはモーセを遣わす理由なんだろうか。神が必ずモーセと共にいるから、だからモーセを選んだんだと言うんだろうか。
共にいる
あなたと共にいる、というのはクリスマスの時にも出てくる言葉だ。
神が共にいるとはどういうことなのだろうか。共にいると言われても神は見えない。共にいると言われても、神が私に代わって何でもかんでもしてくれる訳ではない。いやな面倒なことを神が代わってやってくれるわけでもない。神が私に代わって試験を受けてくれるわけでもないし、神が私の代わりに掃除も洗濯もしてくれる訳でもない。私の嫌いな奴を神がやっつけてくれるわけでもない。神が共にいるということはどういうことなんだろうか。神が共にいても、私がしないといけないことは結局は私がするしかないようだ。
神が共にいても、ファラオに会いに行くのはやはりモーセなのだ。神がモーセを抱きかかえていってくれるわけではない。モーセが自分の足で歩いて行きファラオと会うのだ。
しかしモーセは決して自分ひとりにはならない、必ずわたしはあなたと共にいると言われる神がいるのだ。
何者?
私は何者?と思うことが多い。自分に何ができるんだろうか、自分は何を持っているんだろうか、力も技も権威も何もない、こんな自分に何ができるのかとよく思う。
牧師だからということで祈ってくれと時々言われることがある。自分が祈ったからといってどうかなるとは思えない、自分には祈りによって何かを変える力もないのに、と言う気持ちがぬぐえなかった。それこそ私が何者だから祈ってくれと言うのか、という気持ちだった。
でも今日の所を見ながら自分は何もなくてもいいんだと思うようになってきた。自分は何の力も持っていなくてもいいんだ、むしろ祈るというのは自分の無力さを確認することじゃないかと思えてきた。神はこの無力な自分と共にいてくれている、この神に頼るというか任せるというかお願いするというか、それが祈りなんじゃないかと思えてきた。だったら立派な牧師じゃないけれど自分も祈ってもいいんだと思えてきた。
こんな自分にも、神は必ずあなたと共にいる、と言ってくれているのだと思う。本当に嬉しいことだ。