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礼拝メッセージより
「ヘブライ人になりたい」 2015年6月21日
聖書:出エジプト記2章11-25節
めざめ
モーセはヘブライ人の子どもとして生まれたけれども、エジプト王の命令でナイル川に流された。しかしモーセは王女に拾われ王女の下で育ったようだ。エジプト王家の一員としてエジプトのしきたりに沿ってエジプト人として育てられたことだろう。
しかし今日の聖書によるとモーセは成人した頃、エジプト人が同胞のヘブライ人を打っているのを見てエジプト人を殺したと書かれている。
モーセはどうして自分をヘブライ人だと知っていたんだろうか。誰かにヘブライ人だと教えられたのだろうか。それとも王女が、あなたはヘブライ人なんですよと言いつつ育てたのだろうか。それともへブライ人だというような顔をしていたのだろうか。
そもそも自分は何人だなんていうことにどんな意味があるんだろうか。僕は自分では日本の国籍らしいので日本人だと思っているけれど、でも自分は日本人だとことさらに意識することはない。自分がどういう民族なのかということを意識することもなかった。たまたま意識する必要がなかっただけなのかもしれないけれど。民族同士の争いがあったり、虐げられていたり少数派となっているような時には意識するのかもしれないけれど、僕自身は今まで意識することはなかったと思う。
何人だとか何民族だとか意識させられるときというのは、だいたいが権力者が差別しようとする時なんじゃないかと思う。特定のグループを差別しようとする時こそあいつらは何人だという言い方をしているような気がする。
当時エジプトでもヘブライ人たちは差別され重労働を課せられ苦しい思いをしていた。モーセはへブライ人の子どもとして生まれたけれどエジプト人のように育ったのだろう。しかし成人となってからは自分をヘブライ人なのだと意識している。このころヘブライ人としての自覚に目覚めたのではないかと思う。差別する側とされる側というはっきりしたグループ分けがある社会で生きていくためには、どちらかを選ばざるを得なかったのだと思う。エジプト人として生きるという方法もあったのかもしれないけれど、モーセはヘブライ人として生きようとした、というかヘブライ人になりたかったんじゃないかと思う。ヘブライ人の子どもとして産まれたという事実をどこかの時点で知り、ヘブライ人として生きたいと思いになっていたんじゃないか、そして苦しんでいるヘブライ人を助けたいという思いも持っていたんじゃないかと思う。
逃亡
そういうこともあってモーセはヘブライ人を虐待していたエジプト人を殺してしまう。モーセは殺人者となった。聖書はさらりと書いているけれど、モーセは殺人犯になったわけだ。こっそり殺したようなのでみんなに見せびらかすのではないけれど、エジプト人を殺すことで、これで自分も一人前のヘブライ人となれるというような自意識があったんじゃないかと思う。
そこで次の日にはヘブライ人同士のけんかの仲裁もしようとしたんだろう。モーセは自分もヘブライ人だから冷静に話しを聞いてくれると思ったいたんだろう。しかしヘブライ人仲間として仲裁をしようとしたのに、相手はそうは思ってくれていなかった。しかもこっそりやったつもりの殺人もばれてしまっていた。
ついにはファラオからも命を狙われることとになってしまう。そしてエジプトから東の方のミディアンという土地へと逃げていった。そこで結婚し子どもも産まれることになったけれど、ヘブライ人となってヘブライ人と一緒にヘブライ人を助けていこうというような思いは全く砕け散ってしまった。モーセはそんな失意の中にあったんじゃないかと思う。
モーセは殺人までしたのにヘブライ人として受け入れられなかったというか、ヘブライ人グループに入ることができなかった。しかしエジプト人を殺したということでエジプト人として生きる術も失ってしまった。モーセにとって大きな挫折だったに違いないと思う。
自分がヘブライ人の血を引くということも大きかったのだろうと思うけれど、ヘブライ人として生きたい、ヘブライ人になってヘブライ人を助けてヘブライ人と一緒に生きたいという壮大な計画も脆くも崩れてしまい、エジプトにはモーセの生きる場所はなくなってしまったわけだ。
モーセは王家での生活から一転して、今度は異郷の地で羊飼いとして暮らすことになったようだ。しかしそこでモーセは神からの使命を聞くことになる。
神は言わば脛に傷のあるようなモーセを選んでイスラエル人をエジプトから導きだした。弱さを持っている者を神は敢えて選ばれたのかもしれない。弱さのない人はきっといないだろうけれども、誰もが知っている弱みを持っている、弱みを握られているような者を神は選んだかのようだ。
呼び掛け
自分がヘブライ人を助けようなんて甘い考えだったんだ、こんな自分にそんなことできるわけがなかったんだ、と自分の無力を嘆いていたんじゃないかと思う。
でもそんなモーセを神は選んだのだ。自分の無力さに打ちひしがれて、逃げていった者を神は神の壮大な計画のリーダーにした。
モーセはやがてエジプトへ帰って行く。逃げてきた所へ帰って行く。それはモーセにとってはとても辛いことだっただろう。しかしそのことを通して彼はヘブライ人として生きるようになった。お前はヘブライ人として生きるのだ、という神の呼び掛けだったんじゃないかと思う。
その神の呼び掛けに応えるるためには自分の無力さを知る必要があったのかもしれないと思う。モーセは自分の無力さを知ることで神の声に従っていくことができたんじゃないかと思う。
人間のいろんな思い、嘆きや悲しみや失望などもはらみつつというか巻き込みつつ神は計画を進めていくようだ。モーセは壮大な計画のために呼ばれた。私たちもそれぞれに神の計画に参与するように呼ばれているのではないかと思う。
自分の無力さを嘆きつつ、そんな神の声を聞いていけたらと思う。