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礼拝メッセージより
「あなたが奇跡」 2015年6月14日
聖書:出エジプト記1章22節-2章10節
モーセ
エジプトへ売られたヨセフは、エジプトの王ファラオの見た夢を解いて飢饉を乗り切った。持ち前の才能もあったのであろうがエジプトの高官となり王から国のことを任されるようになった。結局ヨセフはエジプトだけではなく周辺諸国の人たちも救うことになったようだ。そしてその飢饉をきっかけにヨセフの父や兄たちと再会し、彼らもエジプトへ移住することになった。
エジプトへ移住したイスラエルの人たちはやがて数も増えてきた。そしてヨセフのことを知らない王が国を支配するようになるとイスラエル人を怖れ、彼らはは強力になった、やがては敵になるかもしれない、ということで重労働を課して虐待するようになった。それでもイスラエル人はどんどん増えてしまい、余計に重労働をさせるようになった。
そこで王は助産婦にヘブライ人の男の子は殺せと命令するが、それでも助産婦達は、ヘブライ人は自分たちが行く前に産んでしまうと言って殺さなかったのでイスラエルの民はますます増えた。
ここからが今週の箇所になるが、そこでファラオは今度は全国民に、生まれた男の子はみんなナイル川に放り込め、と命令したと書かれている。全国民への命令という風に書かれているけれど、前後の話からしてもそうだし、エジプトの王がエジプト人の子供を殺せなんていうことを言う訳がないので、これはヘブライ人の男の子はナイル川へ放り込めということなんだろう。
モーセが産まれたのはそんな風にイスラエル人にとっては大変な時代であった。イスラエル人の男として生まれることが命の危険にさらされるという時代だった。
やがてイスラエル人を脱出させるための指導者となっていくそのモーセはそんな大変な時代に生まれた。モーセは、ヤコブの息子レビの子孫としてレビ人の夫婦のもとに生まれた。生後三ヶ月までは親元にいることができた。男の子はナイル川に流さないといけないというエジプト王の命令に背いて、三ヶ月はどうにか隠していたのだろう。しかしとうとう隠しきれなくなった親はモーセを川に流すことにした。
そのまま死んでしまう運命にあったはずだったのに、たまたまそのモーセを水浴びに来ていた王女が発見した。彼女はどういうわけかモーセを自分の子供として育てることにしたというのだ。王の命令で捨てられたヘブライ人の子供を自分の子どもにしてしまうことになる。なぜなんだろうか。それほどかわいかったのだろうか。王女は川を流れてきたことから王の命令によって流された子供なんだろうと思っている。それでも敢えてその子を助け自分の子供にしようとしたということは、王女にとっては子供を川に放り込めと言う王の命令が気に入らなかったんじゃないかと思う。あるいはそんな命令を出した王に対するあてつけなのかもしれないとも思う。理不尽な命令を出す父親への反抗だったのかな、なんてことも想像できるように思う。
モーセにとってはこの王女に拾われたと言うことがとても幸運だった。それが神の計画だったということなんだろうか。
ちょうどそこへモーセの姉が登場する。そして乳母を呼んできましょうか、なんてことをいう。それもヘブライ人の乳母を、なんてことをいう。その策略は無事に功を奏してして、その日のうちにモーセは母親の元へ帰ることになる。しかも手当てまでつくというおまけつきだ。自分の子どもの世話をするのに王女から手当てをもらう、なんていううまい話があっていいのか、と思うほどだ。子供を川に流せというひどい命令が却って幸運を招くということになった。災い転じて福となす、って感じかな。
モーシェ
母親はその子が大きくなってから王女のもとへ連れて行ったと書かれている。何歳だったのだろうか。王女はモーセと名付けた。引き上げた、というマーシャーという言葉からつけられたと書かれている。ヘブライ語ではモーセというよりも、モーシェという音に近いそうだ。それまで名前はついてなかったのかなという気もするけれど、どうなんだろうか。それともその時から新しい名前になったということなんだろうか。
計らい
王がヘブライ人を驚異に思うようになったことから、ヘブライ人の男の子は殺されることとなった。きっと殺された子どもも数多くいたことだろう。時の権力者によって、その権力を守ろうとすることによって犠牲となる者がいた。今でも変わらないようだ。何とも理不尽なコトだ。この世はそんな理不尽が渦巻いているといえるのかもしれない。
神がいるならどうしてそんなことが起こるのか、というように思うこともある。悪い者がいい思いをして、いい生活をしている。そんなことがあっていいのかと思う。悪巧みに長けている者がいい思いをする世の中なんてのは間違っている。そんなことをどうして神は許すのか、と思う。
何とも理不尽な世の中である。しかしそんな理不尽な世の中に神は介入してきた。神が見放したからこういう世の中になっているのではなく、こんな世の中にも神は介入している、理不尽な目にあって苦しんでいる者を神はほったらかしにするようなことはない、モーセの誕生の物語はそれを語っているようだ。
奇跡
生まれたばかりのモーセを救ったのは女性たちだ。女性という社会的には比較的無力な者が神の計画の中心人物となっている。彼らを通して神は働かれる。
人は力を求め、自分が力を持てば何でもできるような、人生が思い通りにうまくいくように思っている節がある。財力や権力を持つことで自分の願いが叶い幸せになれるような気がしている。
しかし神は無力な者を通して働かれる。そこで奇跡を起こす。奇跡といっても、神懸かり的なことを起こすのではない。一つ一つの出来事はたまたま起こったに過ぎないようなコトだ。たまたま王女がやってきて、たまたまモーセを発見して、たまたま乳母の話が聞き入れられて、そんなたまたまの積み重ねのようなところでモーセは救われ、イスラエルは救われていった。神はそんな仕方で私たちに関わっておられるのかもしれない。
この前例によって録画した映画を見ていた。落ち着きがなくて一つの映画を最初から最後までなかなか見れない。それでいろんな映画を細切れで見るという変な見方をしている。その中でどの映画だったのかもどんな状況だったのかも覚えていないけれど、一つの場面の台詞だけを思い出した。一人の人が、結局神は奇跡を起こしてはくれなかったと言うと、それに対してもう一人の人が、あなたが奇跡だ、というのがあった。
神の助けは、奇跡的なこと、私たちの想像もできないような、私たちにはとうていなしえないことを神がしてくれること、それこそ天地をひっくり返すようなことをしてくれること、それこそが奇跡のように思っている。でも案外奇跡というのはそういうことではなくて、私たちにとっては当たり前のこと、全然特別なことではない、誰にでも出来ること、そんなことを通して神は奇跡を起こしている、今日の聖書はそのことを伝えているような気がする。
神は一人の赤ん坊を通してイスラエル民族を救い出すという大きな計画を持っていた。そしていろんな人たちがその計画に知らない内に関わっていた。一人の赤ん坊の命を守ることを通して、神のその見えない計画に関わっていった。それはそれぞれの人たちがそれぞれにできることをやっていった結果だった。一人一人がしたことは大したことではなかった。でもそれぞれが自分の出来ることをやっていった積み重ねがモーセの命を救い、イスラエル民族を救い出すことへとつながっていった。
自分の子どもを川に流さないといけないという母親の気持ちはどんなものなんだろうか。この世には夢も希望も何もないという思いになるに違いないと思う。世の中の不条理と自分の無力を嘆き諦めるしかないような気持ちだっただろう。
しかし神は、私たちが諦めるしかないような状況の中にもおられる、私たちが思いもしない仕方で関わっておられる、そのことを今日の聖書は伝えているゆようだ。
私たちは自分の無能さを嘆くことが多いんじゃないかと思う。こんなことしたって何の意味もない、何の効果もないと思うことも多い。自分には何の能力もない、自分は何の役にも立っていないと思う。そしてまたそんな自分を自分自身で責めてしまう。
でもそんな私たちに対しても神は、お前達を通して私は働くのだと言っているのではないか。お前たちを通して奇跡を起こす、お前がそこにいることがもう奇跡なんだ、お前が奇跡なんだ、と言っているのかもしれないと思う。
そう言われると何だかわくわくする。わくわくしながら生きていきたいと思う。見えない神の支えを見つつ生きていきたいと思う。