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礼拝メッセージより
「希望」 2015年6月7日
聖書:出エジプト記1章1-21節
結婚式
ホテルの結婚式のバイトをしているが、あるホテルの担当を少しずつ増やしてくれて、6月7月は結構多くてちょっと安心していた。ところが先日そのホテルのブライダルを請け負っている会社から、7月20日で契約が終わって更新しないとホテル側から連絡があった。ホテルの方針が変わって今までとは違う仕方で別の会社に頼むことになったと突然やめることになったそうだ。
担当が増えてちょっと安心した途端の出来事で困ったなあ、何か別のバイトを探さないといけないなあと思っているこの頃だ。期待はずれなことがあると気分も落ち込んでしまう。
ヤコブの家族
創世記の後半はヤコブの家族の話が詳しく書かれている。ヤコブはイスラエルの祖先、信仰の父と言われるアブラハムの孫であるが、アブラハム一家は家族の中にいろいろな諍いのある家庭であり、ヤコブの子どもたちもその例にもれず兄弟間での軋轢がいろいろとあった。ヤコブは二人の姉妹を妻としていたが、妻たちの仲も決して良くはなかった。子供を持つことが祝福されている妻の証しであるというような考えもあったので、それぞれの召使いを巻き込んで子供を持つ競争をしていた。その結果妻二人とそれぞれの召使い一人ずつの4人の母親から12人の息子と一人の娘が生まれることとなった。
そんなことからも当然のように子どもたちの間に諍いがあり、その結果ヨセフという一人の息子がエジプトへ売られていくことになったが、そのヨセフはエジプトで王に継ぐ総理大臣のような地位に就くことになった。そしてこの地方一帯に大きな飢饉があったが、ヨセフの神から与えられた知恵によって飢饉の前に食料を貯えることによって、この危機を脱し、周りの国からもエジプトへ食料を買いに来るようになった。そんなことからヨセフの兄弟たちもエジプトへやってきてヨセフと再会した。その後兄弟たちがユダヤとエジプトを行ったり来たりするようなこともあったが、結局ヤコブ一家はエジプトへ移住することとなった。
そして出エジプト記の最初にエジプトへ下ったヤコブの子どもたちの名前が書かれている。孫も合わせると70人と書いているが、創世記46章にはそのヤコブの孫たちの名前も書かれている。
増加
イスラエル人と言ったりヘブライ人と言ったりユダヤ人と言ったりするけれども、みんな同じこと。出エジプト記12章40節にはイスラエルの人達がエジプトにいたのは430年だったと書かれている。ヨセフのいた時代から400年ほど経ったころというのが出エジプト記の時代ということになるようだ。
1章8節に、ヨセフのことを知らない王が出たとあるが、時代的には紀元前1290年から1224年に在位したラメセル2世の時代だろうと言われている。
この時代にイスラエル人の数が増えて、戦争の時に敵側についてしまうとまずいということで、人数を減らそうとして重労働を課して虐待した。けれど悪に人数は増えていった。
重労働では減らないということで、二人の助産婦に男の時は殺すようにと命じたが助産婦は命令に従わないで生かしておいた。そこでイスラエルの人達はますます増えていったという話しだ。
バビロン捕囚
この出エジプト記は創世記の続きとなっていて、その後のレビ記、民数記、申命記のモーセ五書と言われる五つがもともと一つの書物だったのだそうだ。そしてこれらがまとめられたのは後にイスラエルがバビロニアという国に滅ぼされて、国の主だった多くの人達がバビロンに連れて行かれていた、所謂バビロン捕囚の時代だった。国が滅ぼされ夢も望みも持てないような時代だった。その時に出エジプト記もまとめられた。希望が見えない、希望を持てない時代にまとめられた。
かつてイスラエル人だからということで、エジプトで重労働を課され、子供の命を狙われるという苦しみを経験した先人たちのことに、同じ異国の地で苦しんでいるバビロンに補囚されている人達は思いを馳せていたのだろうと思う。そしてエジプトから救い出されて約束の地へと入っていったという先人たちの経験は、バビロン捕囚のただ中にいる民にとっては何よりの希望だったに違いないと思う。
希望
先日久しぶりに見たショーシャンクの空にという映画の中に希望という言葉が出てくる。ある時、確か食事の時だったとおもうけれど、妻殺しという冤罪で刑務所に入っている主人公が、希望が一番大事だ、と言った。それに対してずっと前から刑務所にいる親しい囚人が、希望は危険だ、と言った。いつまで続くかわからない刑務所暮らしの中で希望を持つということは、逆にその希望が叶わない時の失望に繋がりかねない、希望を持つことで却って苦しむことになってしまう、だから希望は危険だということなんだろう。初めは塀を恐れ、そのうち塀になれ、最後に塀に頼る、とも言っていた。
しかし主人公は希望を持ち続け少しずつ少しずつ壁に穴を掘り続けて脱獄する。希望を持ち続けたからこそできたことだ。
バビロン捕囚されている人達にとっても希望を持ちづらい状況だったのだろうと思う。いつまで続くのかも分からない。将来どうなるのか全く見通しの立たない状況だったのだろう。これは仕方ないことだ、何も期待してはいけないと諦めの気持ちになった方が楽だというような状況だったのではないかと思う。
しかしそんな人達に対して出エジプトの出来事は、希望を失ってはいけない、希望を持ち続けようと語りかけているように思う。今は苦しい、けれども私たちには神がいるではないか、神が共にいるではないか、だから希望を持とう、持ち続けよう、この出エジプト記をまとめた人達はイスラエルの民にそう語りかけているように思う。
私たちの今の状況も同じような状況かもしれない。問題が山積みで先行きも見えない、この大変さはいったい何時まで続くのかと思うような状況かもしれない。もうしょうがない、どうしようもない、どうせ私が悪いのよと諦めた方が変に期待するよりいいとさえ思ってしまう。
でも希望を持ち続けよう、希望はいいものだ、と出エジプト記は語りかけているような気がする。聖書には、こんな神がかり的なことが本当の起こるのかというようなことも出てくるけれど、実際にはそんな奇跡的なことはそうそう起こらないとは思うけれど、でも俺たちには神がついている、神は見捨ててはいない、神は見捨てない、そう言いつづけているような気がしている。
しかし現実はなかなか期待通りに思うようにいってくれない、期待はずれな事ばかり起こる。実際目に見えることがらはそんなことばかりかもしれない。結婚式の数が増えることに希望を託すと、数が減ってくると希望を持てなくなってしまう。
でも神に希望を託すならば、どんな時でも希望を持ち続けることができる。私たちには目に見えない神がついている。神は私たちの目に見えない仕方で私たちを支えてくれているに違いない。だから目に見える希望が全くなくなった時でさえ、見えない神に希望を持とうと言われているのだろう。
新約聖書のコリントの信徒への手紙一13:13「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という言葉がある。
希望は信仰と愛といっしょにいつまでも残ると言われている。希望をなくすと人間は死んでしまうんじゃないか、あるいは死んだように生きるしかなくなるんじゃないかと思う。
死にそうな大変な状況の中でさえも、私たちは希望を持つことができるんだ、目に見えない神に希望を託すならば、どんな状況でも私たちは希望を持つことができる、希望をもっていきいきと生きることができる、とこの出エジプト記をまとめた先人はバビロン捕囚にある人達だけではなく、私たちにも訴えているようだ。