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礼拝メッセージより
「風に吹かれて」 2015年5月24日
聖書:使徒言行録20章17-24節
ペンテコステ
今日はペンテコステ。日本語だと50番目という意味らしい。過越の祭りから50日目に五旬祭という祭りをしていた。他に、七週の祭り、刈り入れの祭り、初穂の日、とも言われていたようだ。大麦の収穫が終わり、小麦の収穫が始まる時期からそういう言い方もしたようだ。
イエスが処刑されてから50日後に起こった出来事は使徒言行録2章に書かれている。イエスの弟子たちが聖霊に満たされ他の国々の言葉を語り始め、祭りでエルサレムに集まっていた大勢の人達が故郷の言葉を聞いてびっくりした、そしてそれまで逃げ隠れしていた弟子たちは、これを機会にイエスこそキリストだと大胆に語り始めた。そこでペンテコステは言わば教会の誕生日のようなものだとも言うらしい。
今日はペンテコステ礼拝だけれど、今日の聖書はペンテコステの日のことではない。ただ20章16節には「パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。」とある。ここに五旬祭という言葉が一応出てはくる。
別れ
今日の箇所は第3回伝道旅行と言われる旅の途中での話しだ。
パウロはかつてエフェソには2年半滞在し多くの人々をキリストの信仰へと導いた。その後マケドニアに行き、聖霊に示されてエルサレムに向かう途中、ミレトスでエフェソの長老たちを呼んで行った決別説教、遺言説教。パウロは旅を急いでいたのでエフェソには立ち寄らなかったけれども、エフェソの教会の長老をわざわざ呼んで話しをしたと書かれている。
パウロは彼らにもう会うことはないと思っているらしくて、遺言のようなつもりで語ったようだ。
霊
パウロはここで、わたしは霊に促されてエルサレムに行くとか、そこで投獄と苦難が待ち受けていることを聖霊がはっきりと告げてくださっていると語っている。
聖霊とは何なのか。使徒言行録2章に書かれているペンテコステの出来事を見ると、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(2:2-4)と書かれている。
激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、炎のような舌が見えたと書かれている。霊という言葉はギリシャ語では「プネウマ」と言って、風とか息とも訳せる言葉だそうだ。風は見えないけれど感じるわけで、霊も見えないけれども感じるもの、そして風のように力があるものなんだろうと思う。
聖霊は、父子聖霊というようにいわれる三位一体のうちのひとつ、と教えられてきた。父なる神、子なる神、聖霊なる神ということなんだろうけれどよく分からない。聖霊とは風のように私たちを押していく、神の力のようなものなんじゃないかと思う。
パウロは霊に促されてエルサレムに行くと言っている。霊というとなんだか幽霊のようなイメージがあって、テレビドラマにすると背後霊が後から「エルサレムに行け、お前はエルサレムに行くんだ」と囁きかけるような場面になりそうだけれど、実際にはパウロの心の中にエルサレムに行くんだ、行かねばならないという思いが起こってきて、その思いをずっと持ち続けるようになったということなんだろうと思う。その思いを起こさせたのが聖霊である、ということなんじゃないかと思う。声が聞こえることも、肌で感じることもなかったと思うけれど、エルサレムに行くんだという思いを風のように吹かせて迫っていくというか圧力をかけていくというか、それが聖霊の働きなんじゃないかと思う。パウロは風の力で押し流されるようにして聖霊に後押しされてエルサレムへと向かって行ったのだろう。
弁護者
ヨハネの福音書には、イエスが弁護者としての聖霊について語っている。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は、別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ14.15-17)
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14.25-26)
聖霊は風のように私たちにいつも吹き続けているということだろう。そして風のように私たちを押してくれている、その力で私たちを支えてくれているということだろう。また私たちにイエスの言葉を思い起こさせ力付けてくれているということだろう。
風に吹かれて
パウロはこの聖霊の風に吹かれて生きていたということだろう。
パウロは、自分の命をかけて福音を伝えていった。そのために命を失ったとしても構わない、という。
パウロが各地を伝道していく力はいったいどこから出てくるんだろうかと常々不思議に思っている。その頑張りはどこから出てくるんだろうかと思っている。
でもなんだか頑張っているわけではないんじゃないかという気がしてきた。今までは何となく伝道しなきゃいけないという義務感にかられて自分を打ちたたいてやっているようなイメージがあったけれど、そうじゃないような気がしている。
パウロはただ聖霊という風に吹かれて生きていたんじゃないかと思う。イエスを伝えることこそがパウロの人生そのものだったのだろう。だからこそそこで命を失っても構わないという気持ちだったのだろうと思う。
私たちも同じ聖霊の風に吹かれて生きている。この風に吹かれて流されていくところ、そこが私たちそれぞれの人生なのだ。
流されたくない、行きたくないと踏ん張る時もあるけれど、そんな時は余計に疲れてしまうような気がする。
流されるままに神と共に生きていくところに平安があるんじゃないかなと思う。
神の風に吹かれ神と共に生きていくようにと私たちは招かれている。