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礼拝メッセージより
「共にいる」 2015年5月17日
聖書:使徒言行録18章1-11節
コリント
あなたがたが知らずに拝んでいるものをお知らせしましょうとアテネの人々に宣教したパウロだったが、アテネの人達はほとんど信じることはなかったようだ。17章の最後には、信仰に入った者も何人かいた、と書かれているようにほんの僅かだったようだ。
パウロはそのアテネからコリントへ行った。コリントはペロポネソス半島がギリシャ本土に接する付け根に当たる所にある街で交通の要衝で商業も工業も盛んだったそうで、活気のある街だったそうだ。
パウロはそこでアキラとプリスキラ夫妻と出会い、テント造りという同じ仕事だったので彼らの家に住み込んで一緒に仕事をしていた。この夫婦はクラウディウス帝によるローマからのユダヤ人退去命令によってやってきていた。この退去命令は紀元49年にユダヤ教とキリスト教とのいざこざが原因らしい。夫婦はすでにローマにいるときにキリスト者となっていたのだろう。
その後ベレアで別れていたシラスとテモテがマケドニアから援助金を持ってやってきてようだ。そこでパウロはみ言葉を語ることに専念し、ユダヤ人にメシアはイエスであると証した。しかし彼らが反抗し、口汚くののしったのでと書かれているが、パウロはお前たちのことは知らない、これからは異邦人の方へ行く、と言った。そう言いつつ、会堂の隣りにあったティティオ・ユストという神をあがめる人の家に引っ越した。わざわざ会堂の隣りに住んだということは、決別宣言はしたけれど、それでもやっぱり放っておけなかったということなのか。それともユダヤ人に対するあてつけだったんだろうか。
その後不思議なことに会堂長クリスポ一家が主を信じるようになり、他の多くの人も信じてバプテスマを受けたと書かれている。
そしてある夜、主が幻の中でパウロに、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。・・・」と言われ、パウロは1年半の間コリントにいたと書かれている。
恐れるな
「恐れるな」と言われているということはパウロが恐れていたということだろう。
コリントの信徒への手紙の中でパウロは「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(コリントの信徒への手紙一2:3)と語っている。
パウロはどこへ行っても勇敢に語ってきたようなイメージがあるけれど実際はそうではないようだ。アテネの人達に語ったときに僅かの人しか信じてくれなかったことでパウロは意気消沈していたのだろう。そしてコリントへ来た時にも、コリントのユダヤ人からは反抗されののしられてしまった。泣きっ面に蜂という気持ちだったんじゃないかと思う。アテネでは異邦人に、そしてコリントではユダヤ人に続けて拒否されてしまったということでこれからいったいどうすりゃいいんだというような気持ちだったのだろうと思う。そのユダヤ人に語った、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」という言葉は丁度パウロのいらいらが募った時の言葉だったのかもしれない。
そうは言いつつ会堂の隣の家に移り住んで語り続けたというところが面白い。そんな時に会堂長であるクリスポとその一家が主を信じるようになったことでパウロはとても嬉しかったであろうし、自分のやっていることは決して間違いじゃないという安心感も与えられたことだろうと思う。
そのすぐ後に「また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、バプテストを受けた」と書かれているけれど、これは使徒言行録をまとめたルカの脚色か、あるいはもっと後になってからのことじゃないかな。コリントへ来てすぐそうなっていたら「恐れるな」なんて言われる必要もなかったというか聞く必要もなかったように思う。
パウロはなかなか自分の思うようなというか、期待するような結果が出ない、却って反発されてしまうののしられることで、恐れと不安にさいなまれていたんだろうと思う。だからこそ「恐れるな」という声が聞こえたに違いないと思う。
会堂長一家が信じるようになるなんてすごいじゃないかという気もするけれど、パウロはそれでもぬぐいきれない不安と恐怖に怯えていたのだろう。どこまでも突き進むようなパウロのイメージとは全く違うイメージだ。でも案外人間というのはどんなに上手くいっていても、どんなに結果が出ていても、不安や恐れは消しようがないのかもしれない。
共にいる
パウロが幻の中で聞いた主の言葉は「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」に続いて、「わたしがあなたと共にいる。」というものだった。わたしが共にいるから恐れず語り続けなさいということだ。主イエスが共にいる、それが恐れない根拠、語り続ける根拠だ。
自分のやっていることに成果が出ないというか成果が見えない時というのはこれでいいんだろうかと不安になる。危害を加えられる危険がある時には恐怖心を抱くことにもなるだろう。そんな時はうまく行かない状況、あるいは不安と恐怖心という自分の気持ちばかりに目を奪われてしまい、現実が見えなくなってしまいがちだ。
今の僕自身の状況みたいだなと思う。教会員も礼拝の人数も献金も減るばかりで、まさに不安と恐怖心がいっぱいだ。不安に押しつぶされそうになることもある。そんな時は、こんなに減ってしまった、という風にどれだけ少なくなったかというようなことばっかりに目を奪われてしまっている。
何だか今日の言葉は僕自身に語りかけられている言葉のような気がしてきている。「恐れるな。語り続けよ。」と言われているような気がしている。
でもただ恐れるな語り続けよだけだったらこれは結構つらいしんどい命令だなとも思う。これだけだったらお前の力を振りしぼっていけ、もっともっと頑張れと言われているようで余計疲れてしまいそうだ。でもここではそれに続けて「わたしがあなたと共にいる」と言われている。
主が共にいる、それがすべての始まりのように思う。恐れるときも心配するときも悩むときも、主イエスがいつも共にいる、それが私たちの出発点のように思う。
どういう形で共にいてくれているのかはよく分からない。しかし共にいるのだ。どんな時でも共にいてくれているのだ。私たちがどんなに駄目でだらしなくて救いようがなかったとしても、でも共にいてくれているのだ。だからこそ私たちはこの主イエスを信じていくのだ。共にいる、それが私たちの信仰の出発点でもあると思う。そして終着点でもあるように思う。