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礼拝メッセージより
「神の言葉に生かされて」 2015年5月3日
聖書:使徒言行録15章1-21節
真理
真理とは何なのか、何が正しいことなのか、なかなか分かりにくい。特に信仰的な事柄について、どれが真理なのかなんてよく分からないという気がする。
私たちは神を信じたいとか信じているとかいうけれど、何をどう信じているのだろうか、信じるとはどういうことなんだろうか。自分の信じ方と相手の信じ方が同じとは限らないし、どちらが正しい信じ方なのかなんてことになると本当に難しい。
対立
使徒言行録の10-11章を見ると、かつてペトロが幻を見せられて、カイサリアという所にいたローマ兵コルネリウスたちにバプテスマを施したことがあった。その時に異邦人と一緒に食事をしたことをエルサレム教会、ユダヤ人キリスト者から非難されたようなことがあった。それに対してペトロが弁明をした、なんてことが書かれている。11:18には『この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を讃美した。』と書かれている。
ユダヤ人キリスト者の教会であったエルサレム教会はユダヤ教の社会の中に生きている人たちの集まりでもあったので、ユダヤ教の習慣を守り続けている人も多かったのだろう。ペトロたち使徒や、イエスの弟であるヤコブが中心となっていた教会だったが、もともとユダヤ教の中の一派という気持ちでいたようであるし、異邦人キリスト者も旧約聖書の律法を完全に守るように、という話しになっていったようだ。
イスラエルの北にある教会であるアンティオキア教会は、ステファノたちの考えに同調する人たちが作った教会で、バルナバやパウロが中心となっていた。自分たちはユダヤ教の一派ではなく、ユダヤ教を超えるものであると考えていたようだ。ここにはユダヤ人も異邦人もいて、律法からは比較的自由な考えを持っていたらしい。
そこで15章にあるように、エルサレム教会からアンティオキア教会へ使者がやってきて、割礼を受けないと救われない、というようなことを教え始めた。そこで激しい意見の対立と論争が生じた、と2節に書かれている。
かつてペトロが異邦人にバプテスマを授けた、異邦人にも聖霊が降ったので神を讃美した、なんてことは何だったのかと思うような話しがまた起こってきた。律法を守ることではなく信仰によって救われる、と主張していたパウロとの真っ向からぶつかることになった。
使徒会議
アンティオキア教会はエルサレム教会へ人を送ってこの問題を協議することになった。
それはパウロにとっては譲ることの出来ない大変な問題であった。割礼を受けて一度ユダヤ人となってからでないとクリスチャンにはなれない、と言っているのだ。
ペトロとヤコブ
そこにペトロが登場する。ペトロは異邦人が福音を聞いて信じるようになったことを語った。最後にヤコブはイエスの兄弟である。エルサレム教会では大きな影響力を持っていたようだ。そして最初はヤコブもユダヤ人キリスト者が主張するような意見を持っていたのだろう。ペテロが異邦人と食事をした時にもそれに反対する立場に立っていたのだろう。それがユダヤ人としてごく当り前というふうに思っていたのだろう。
しかし彼はこの会議においてアンティオキア教会の働きを聞き、またペテロの話しを聞き、異邦人にも割礼を受けなくても、神が働いていることを認める。
しかしヤコブにとってもゆずることの出来ないことがあった。そこで「ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」という調停案を出したと言うことだろう。あるいはこれはかなり心情的に感情的に譲れないということだったのかもしれない。
会議は踊る?
しかしこの会議は無事に終わったのだろうか。割礼に対する思いに違いがあるように偶像に対する思いにも違いがある。
パウロは偶像に対する供え物についてはヤコブと違う意見を持っている。彼の福音に対する姿勢はエルサレムのユダヤ人キリスト者たちとは違い徹底的である。彼からみればエルサレムの連中は古いものにこだわっている頭の固い連中と見えたのではないかと勝手に想像する。
偶像に対する供え物についてもコリントの信徒への手紙一 8:4-9には、
「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」とある。
パウロは偶像なんてのは実際にはないのだからそこに供えたからといってもその肉が汚れるなんてことはない、だからそれを食べたからといってもどうってことはない、と考えている。しかしみんなが同じように考えているわけではない、弱い人々はそうは考えられない、だからといってそういう人たちを非難したり卑下したりするのではなく、そういう人たちのことを配慮するようにと勧めている。
神の言葉に生かされる
この会議で重要なことは、結局はどこに神が働かれているかということだった。割礼が必要なのかどうかというのを判断する材料は、割礼が神の働きに関係しているのかどうかということだった。割礼のない者たちにも神が働いているという事実こそが、この会議の焦点だったように思う。その事実を前にしてはユダヤ人達も黙らざるを得なかったんだろう。
この神の働きを見ることが私にも大事なのだろうと思う。私たちも教会に新しく来る人達に案外余計なことを要求しているのかもしれない。これはこうするものだ、こうすべきだ、ずっとやってきたんだから、というようなことになりがちだ。特に儀式的なことはそうなりがちだと思う。あるいはクリスチャンはあれをしてはいけない、これをしてはいけないなんてことを言いがちだ。でも本当に大事なこと、それは神が働いているかどうかだろう。
では神の働きがあるかどうかをどこで判断するのか。それは神の言葉を聞くことで力づけられたり励まされたり、あるいは慰められたり癒されたり安心したりしているかどうかなんだろうと思う。
つまり神の言葉に生かされていること、それこそが大事なことなのだろうと思う。
違い
この会議で両教会が同じ意見になることはなかった。割礼に対する考え方はお互いにもとのままだ。エルサレムの教会はこれまで通り割礼を受けたユダヤ人の教会、アンティオキアの教会は割礼に関係のない異邦人の教会のままだ。
この会議は、エルサレムの教会とアンティオキアの教会のどちらが正しいか、ということを決めたわけではなかった。私たちはパウロの方が正しいと聞かされてきているのでそちらが正しいように思うけれど、どちらが正しいのかなんてのは本当はよく分からないのかもしれない。結局この会議はどちらが正しいかを決めることではなく、お互いを認めるという会議だったのかなと思う。
私たちそれぞれも違いを持った者同士だ。罪も汚れも間違いも持った者同士だ。私たちも自分の正しさを主張し会ったり、相手の間違いを指摘し会ったり責め合ったりしてしまうことが多い。そしてそれをしだすと切りがない。お互いに罪も間違いも失敗もある同士だ。しかしそんな私たちをイエスは愛していてくれている、いつも共にいてくれている。そのことを受け止め、神の言葉に生かされていることを喜びあっていきたいと思う。