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礼拝メッセージより
「そのまま受け取る」 2015年4月26日
聖書:使徒言行録13章1-3、44-52節
もう一つのアンティオキア
パウロとバルナバはアンティオキアの教会から派遣されることとなった。聖書だと神の定められた仕事に当たらせるために選び出されたと書いてあるが、そこから第一回伝道旅行と呼ばれることになる旅が始まった。
会堂
当時はローマ帝国の各地にユダヤ人たちが住んでいて、シナゴーグとか会堂と言われる建物も各地にあったようで、彼らは安息日にはそこで集会を持っていたそうだ。パウロたちも新しい町へやってくると、まずは安息日に会堂や行き、そこに集まって来るユダヤ人たちに話しをしていたらしい。そこには生まれながらのユダヤ人だけではなく、異邦人からユダヤ教に改宗した人もいたようだ。43節に、「神をあがめる改宗者」という言葉があるが、それは異邦人からの改宗者のようだ。
パウロとバルナバはキプロス島を経由して、ピシディア州のアンティオキアへやってきた。彼らは安息日に会堂に入り、聖書朗読の後、この時には今の旧約聖書と言うことになるが、会堂長の勧めに従ってパウロが話しをした。イエスは旧約聖書に約束されていたメシア、つまり救い主であるということ、イエスによって罪を赦され、律法によっては義とされなかった者も信じることで義とされる、という話しをした。
パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々はまた次の安息日にも話しをしてくれるようにと頼んだ。そして集会が終わってからも二人と語り合った。
そして次の安息日の様子が44節以下のところになる。ほとんど町中の人が集まってきた、と書いてある。これは使徒言行録によくある大袈裟な書き方だと思うけれど、でも多くの人達が集まってきたんだろう。ところがユダヤ人たちはこの様子を見てひどく妬みパウロの話すことに反対したというのだ。
そこでパウロは、神の言葉は先ずはあなたたちに語られるはずだったのに、あなたたちはそれを拒んでしまった、そのために永遠の命を得られないものになってしまった、と語った。そして「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも、救いをもたらすために」という旧約聖書の言葉を引用して、それが神の命令だ、わたしたちは異邦人の方へ行く、と宣言した。それを聞いた異邦人たちは喜び信仰に入ったが、逆にユダヤ人はパウロとバルナバを迫害し町から追い出した、という話しだ。
ユダヤ人
ユダヤ人たちは町中の人達が集まってきたこと、つまり異邦人たちが大勢来たことで気を悪くしたということのようだ。自分達だけの宝物が自分達だけのものじゃなくなったということで気分を害したかのようだ。
ユダヤ人たちは最初なぜ喜んだのだろうか。それがどうして次の週に妬みになったのだろうか。前の週には集会が終わってからも語り合うほどに喜んでいたのに、その後は手のひらを返したように迫害するなんてどういうことなんだろう。
ユダヤ人たちは律法を守ることによって神に従う、赦されるという風に聞かされてきたのだと思う。割礼とか安息日とか献げ物とか、いろんな細かな律法を守ることが大事で、それを守ることで初めて赦されると思ってきたのだろう。しかしパウロは律法では義とされなかった、しかしイエスの死と復活によって義とされると語った。案外ユダヤ人たちは律法を守ることに疲れを感じていたのかもしれない。律法を守れてないという負い目も感じていたのかもしれない。だから律法ではなくイエスによって義とされる、赦されるという教えに魅力を感じたんではないかと思う。
しかし彼らは自分達がユダヤ人であるというこだわりは持ち続けていたんだろう。神は自分達だけの神だという思いはそのままだったんだろう。そして異邦人が喜ぶことを認める事ができなかった。異邦人と一緒に喜ぶことができなかった。
それはユダヤ人たちが神を自分のものと思っていたからではないかと思う。自分だけの物、自分の所有物、自分達だけが持っている特別な宝物、自分達だけの特権のように思っていたのだろうと思う。自分だけが持っていると思う時は優越感に浸っていられる。しかしそれを誰もが持つようになってしまったらそんな優越感は持てなくなってしまう。そんな感じだったのかなあと思う。
ユダヤ人たちは選民思想と言って、自分達は神に選ばれた民、特別に選ばれた民、だから異邦人のような汚れた民とは違うのだ、という意識があったらしい。ユダヤ人は異邦人のことを地獄の釜の燃料として造られたという風に考えていたと聞いたことがある。
だから異邦人たちが自分達ユダヤ人と同じように喜ぶことが許せなかったということなんだろう。
受け取る
結局ユダヤ人たちと異邦人たちの違いは何だったんだろうか。それはこの時パウロが語った言葉、福音と言ってもいいように思うけれど、それを受け取るかどうかだった。ユダヤ人たちは最初は受け取ろうとした、けれど異邦人が受け取るのを見て、自分達は受け取ることをやめてしまった。異邦人たちはそのまま受け取った。結局は受け取ったか受け取らなかったかの違いだった。ユダヤ人たちは福音を受け取らないで妬みを起こし、異邦人は福音を受け取って喜び主を賛美するようになった。
聖書から、あるいは色んな人の説教から私たちは福音を受け取っているのだろうか。僕自身は最近特に受け取っていないような気がしている。これは本当なんだろうか、本当は違うんじゃないかとか、ここから何を語ればいいのかとか、素直に受け取らないで余計なことばかり考えてしまっているような気がしている。
今日のユダヤ人と似ているように思うけれど、他の牧師の説教を見てもそんなことを言ってるんじゃないだろうとか、そこはもっと違う意味だろうとか、もっと違う意味を見つけてやると思ったりとか、そんなことばかり考えている。聖書も説教も全然素直に読んでないし、素直に聞いてないなあと思う。他の牧師に対抗意識を持っていて、聖書も説教も素直に読んでないで、結局そこから喜びを見いだせないでいるなあと思う。
礼拝のメッセージも他の人と違う意味を見つけ出してやろう語ろうなんて思ってしまって、結局よくわからない話しになってしまっているような気がしている。今日もそうかもしれないけれど。他の牧師と同じ話してもいいはずなのに、違うことを語ろうとして結局おかしな訳のわからない話しになっているような気がしている。
聖書の言葉、福音はそのままを受け取ればいいんだと思う。この言葉そのものに私たちに喜びを与える力があるんだから。いかにそれをそのままに受け取るかどうかが問題なんだろうと思う。
全く何も考えないで素直に、という訳にはいかないけれど、できるだけそのままの言葉をそのままに聞いて行きたい、受け取って行きたいと思う。
そしてこのみ言葉に励まされ力付けられ、また慰められて生きていきたいと思う。そんなことを思わされている。