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礼拝メッセージより
「正直に」 2015年4月12日
聖書:使徒言行録9章1-19節前半
止まれない
飛び出すな、車は急に止まれない、という標語があったように記憶している。慣性の法則というのかな、止まっているものはそのまま止まり続ける、動いているものはそのまままっすぐ動こうとする習性がある。
もう一つ止まれない話し。2009年にニューホライズンズという探査機が打ち上げられて、今年7月14日に冥王星に最接近するそうだ。探査機が9年かけて初めて冥王星に近づくということらしくて、冥王星の周りを回っていろんな探査をするのかと思いきや、近くを通り過ぎるときに探査してそのまま通り過ぎるそうだ。なぜかというと小さい星なので引力も小さくて、探査機もすごいスピードで動いているので、スピードを落とすには相当のエネルギーを使わないといけない、しかしそのための燃料を積むとなると重くなりすぎる、というようなことで通過する時だけ観測して、その後はもっと外の小さい星を観測することになっているそうだ。
しかしなかなか止まれないのは車や探査機だけではない。人間にも慣性の法則があって、動いているとなかなか止まれないように思う。自分の進んできた道をそのまま進もうとする、間違ってるかもしれない、と思ってもそうそうすぐには止まれないような気がする。
信念
今日の箇所に登場するサウロ、サウルはヘブライ読みの名前、サウロはそれをギリシャ語化した音、パウロはギリシャ語の名前だそうだ。何とまぎらわしい。
サウロは、ヘレニズム文化の栄えたキリキアのタルソスという都市で生まれ育った、ユダヤ地方から離れているディアスポラ(離散)のユダヤ人だった。今のトルコの地中海に面した町だそうだ。そして彼は、ローマの市民権を持っていた。しかし彼はイスラエルの民としての誇りを持ち、ファイサイ派の厳格な教育を受けた。そして律法には落ち度のない者だったと自分で語っている(フィリピ3:6)。律法を守ることこそ神に従う道だという思いで突き進んでいたようだ。
その頃、イエスという男を信奉し、律法を軽視する集団が広まっていたわけだ。律法に熱心なサウロにとっては、許しておけなかった。「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き」なんてあるように、サウロはキリスト教徒迫害を上の人から命じられてしたのではなく、自らの熱心から、自らの信念からキリスト教会を殲滅しようとしていたようだ。
7章54節以下のところを見ると、ステファノが処刑される時にそこにいて、証人達の着物の監視をしていたことが書かれてあり、8章3節には「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」と書かれている。
ステファノは12使徒を助けて、教会の食事などの世話をするために選ばれた7人の中の一人と書かれているけれど、ただの世話役ではなく異邦人教会員の指導的立場だったようだ。
呼び掛け
そんなサウロにイエスが現れた、と言うのが今日の箇所だ。使徒言行録の中にはこの時の話しが3回出てくる。手紙の中にも出てくるそうで、パウロはこの時のことを何度も話ししていたようだ。
しかしこの時にどんなことが起こったのかよくわからない。サウロに同行していた者は声は聞こえても姿は見えなかった、と書かれている。サウロ自身もその後目が見えなくなってしまっている。
きっとサウロの心の中に強烈な光が射し込んだということなんだろう。自分が、こいつは偽物だ偽キリストだと思って、そう信じて迫害していたイエスが実は本当のキリストだったということを突きつけられたということになる。
ということは今までやってきたことがとんでもない間違いであったということを突きつけられたということだ。おまえらは間違っている、そんなことを続けることは許さない、続けるなら処刑する、といっていた自分の方が間違っていたと知らされたのだ。
そこに人生を掛けていたであろうサウロにとっては、人生を根底から建て直さねばならないような事態だ。
しかしサウロはもう少し前から悩んでいたんじゃないかと思う。ステファノの処刑の時に立ち会っているが、その時に祈りながら処刑されるステファノの姿に衝撃を受けていたのかもしれないと思う。あるいはもしかしたらイエスのことを伝え聞き、その言葉や振る舞いに何か感じるものがあったのかもしれないと思う。引き付けられる何かを感じていたのかもしれない。ひたすら律法を守るという生き方にどこか疑問を感じてもいたのかもしれない。
しかしいいなと思っても人間もなかなか変われない。イエスに何か魅力を感じたとしても、そうやすやすと自分の生き方を変えることはできなかったんじゃないか。あるいはそんなイエスに対する魅力やファリサイ派に対する疑問を邪念だと思い、その邪念を打ち消すために余計に頑張ってキリスト教会を迫害していたのかもしれない。
しかしステファノの処刑を目の当たりにし、邪念はどんどん大きくなり、心の中での葛藤は最高潮に達していたんじゃないか、いったいどっちが正しいのだ、イエスはただの異端者か、それともキリストなのか、自分は正しいのか、それとも間違っているのか、そんな思いに苦しんでいたんじゃないか、そしてその苦しみが爆発したのが今日の場面なのではないかと思う。
そんな苦しみの中でサウロはイエスの言葉を聞いたのではないかと思う。それまで拒否していたイエスの言葉を拒否しきれなくなった、そしてイエスに従って生きようと思い始めたのではないかと思う。
サウロは三日間目が見えなくなり食べも飲みもしなかったと書かれている。サウロは三日間何をどう考えたのだろうか。きっと俺の人生は一体何だったのか、今までしてきたことは何だったのかと考えたのだろう。それまで間違っていたということを受け止めることは相当に大変なことだったに違いないと思う。正しい人間を捕まえて痛めつけてきた、ひどい目に遭わせ処刑してきた。
言わばそれまでの人生を否定するようなことなのだ。あの声はイエスの声だったのか、何かの間違いだったのではないか、でもあれが本当にイエスの声ならば従うしかない、しかし一緒に教会を迫害していた者たちに対しても、そして教会の人達に対しても、今さらどんな顔をして生きていけばいいのか、と思ったんじゃないだろうか。そんないろんな思いに悩み苦しむ三日間だったんじゃないかと思う。
自分の人生をまるっきり方向転換するような大変な3日間だったのだろう。自分の人生を否定するようなことはしたくない、という思いとの闘いでもあったのだろうと思う。
神の命令だからといっても、はいそうですか、とはなかなか行かないのが現実のようだ。いろんな闘いがある。自分自身との闘いがある。
正直に
人間もすぐには止まれない、それまでの生き方を中々やめられない。しかしサウロは自分の疑問や自分の思いに正直に従ったということなんだろうと思う。そして自分に語りかける神の言葉に正直に従ったのだろうと思う。
正直に生きると言うことは結構大変なことだ。とても大変なことだ。教会でも本当は感謝できないのに感謝しているような顔をしてしまうこともある。信じられないのに信じているような顔をしてしまったり、信じられない自分は駄目なんだと責めたりすることもある。でも信じられるときもあれば信じられないときもある、それが私たちの本当の姿なんじゃないかと思う。
サウロはその後大変な困難な中でイエスのことを伝えていった。それはサウロがイエスの言葉に正直に答えていった、つまりイエスの言葉を聞いたことで感じた自分の思い、それに正直に従ったからではないかと思う。無理をしてええ格好をしようとしてではなく、自分がそうしたいという自分の気持ちがあったから、そしてその気持ちに正直に従っていたからこそ苦難をも耐え忍ぶことができたんだろうと思う。
私たちもイエスの言葉をしっかりと聞いていきたいと思う。そしてその言葉を聞くことで感じる正直な思いを大事にしていきたいと思う。
無理をして元気な振りをすることもない、無理をして頑張ることもない、でもイエスの言葉には私たちを元気にする力があり、慰める力があると思う。だからこそイエスの言葉をしっかりと、じっくりと聞いていきたい。