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礼拝メッセージより
「どんな時も」 2015年4月5日
聖書:使徒言行録1章3-11節
悲しみ
先日、たまたま録画していた東日本の震災で被害にあった子供達に関するテレビを見た。津波で家族や近所の人達を亡くした中学3年生が、命について考えるというような授業をしたという話しだった。
また震災の話しかという気持ちや、こうやって大きな災害があっていっぺんに多くの人が亡くなるといつまでも語り継がれるんだなあ、なんていうひねくれた気持ちをもちつつ見ていた。
命について考えるということでその授業では、それぞれ津波で家族を亡くした経験や気持ちを作文にしてまとめる、そして読んでもいいという生徒の作文をみんなで聞く、またそれを聞いた感想をまた作文にする、というようなことを何度か繰り返していた。
そういう機会を与えられたことで子供達は自分の思いを相手に伝えることができて、また相手の気持ちを知ることもできたようだった。お互いに何となく触れないようにしてきたお互いの苦しさやつらさを、この授業を通して知ることができたようだった。
それを見ながら、この子たちはこの命に関する授業をすることがなかったら、自分の気持ちを相手に伝えることも、相手の気持ちを聴くこともなかったんじゃないか、なんて思った。そして学校だけじゃなくて、今の社会は自分の気持ち、辛さや悲しさ苦しさ、そんなものを真剣に聞くこともあまりないし、逆に本当の気持ちを出さないように見せないようにしているんじゃないかと思った。お互いの気持ちを受け止めあうことよりも、自分がいかに立派になれるか、どれほど偉くなれるかというようなことを目指しているんじゃないかと思った。
たとえば学校でも教えられたことをどれほど覚えていけるか、どれほど正しくいられるかということばかりを目指しているような気がしている。悲しいとか苦しいとか、そういう気持ちにはほとんど目を向けられていないんじゃないかという気がしている。心の弱い奴やカウンセリングでも受けとけというような感じで、とにかくテストでいい点を取ることばかりを目指していてように思う。
でもこの時の中学生は、それまで見せることのなかった自分の思いを聞いてもらうことで少しずつ変わっていった、楽になっていき、また前向きになっていったようだった。
自分の本当の思いを聞いてもらうこと、受け止めてもらうこと、それは本当にうれしいことだ。でも自分の本心を誰かに語るということもとても難しい。相手がどう思うのかという心配もある。きちんと聞いてくれるかどうか、逆に諫められたり叱られたりするかもしれないという不安もある。本当に本心を見せられるのは結局は神しかいないんじゃないかと思う。そして本心を受け止めてもらうこと、それは自分をまるごと受け止めてもらうことでもあると思うけれど、それはとても大事なことだと思う。人間というのは、自分が立派になって力を持つことではなく、自分をまるごと受け止めてもらうことで初めて安心するものじゃないかと思う。
イエス
今日はイースター、復活祭だ。イエスは十字架で処刑されて死んだけれど復活したと聖書に書かれている。
今日の聖書では、復活したイエスが天に上げられて雲に覆われて見えなくなった、なんてことが書いてある。
復活っていったい何なんだろうかと思う。聖書にはイエスの身体がそのまま生き返ったかのように書かれているけれどそうなのかどうなのかよく分からない。
聖書は二千年近く前に書かれたもので当時の考えのもとで書かれているので、もし同じ出来事を今書くとしたら随分違う書き方になるだろうと思う。そういうことも考慮しながら読まないとおかしな話しになると思うけれど、でもそれにしても天に上っていって見えなくなったなんて書かれると、どう考えたらいいのか困ってしまう。
イエスの復活ということで大事なのは、身体が生き返ったかどうかということよりも、イエスの形というかイメージ、あるいはかつてイエスが語ってきた言葉、そういうものが心の中に浮かび上がるということ、イエスの言葉を心の中で聞けるということだと思う。つまりひとりひとりの心の中にイエスは復活すること、それこそが大事なことだと思う。
イエスが肉体を持って生き返ったとしても、そのイエスに会うことが出来るのはごく一部の人に限られる。しかし一人一人の心の中に復活するのであれば、どれほど離れていても、誰でもイエスを心に迎え入れることができる。
召天者
今日は召天者記念の礼拝でもある。先に亡くなった方たちのことを覚えつつの礼拝でもある。この方たちもそんな風にイエスを心の中に迎え入れていた、復活のイエスと出会ってきた。そのイエスの言葉を聞き、イエスの言葉に励まされ、慰められきた。そしてこのイエスに自分の思いを語り、ぶつけてきたことと思う。自分の本心、心の底からの思いを受け止めてもらうこと、安心して本心をぶつけること、それは最終的にはそれはやっぱり神にしかできない、イエスにしかできないことだと思う。
今日の聖書ではイエスは天に上げられて見えなくなったけれども、やがて聖霊が降ると弟子たちは地の果てにいたるまでの証人となる、なんてことも言われている。聖霊というのは神の聖なる霊ということだろうけれどそれも目に見えるものでもないしよくわからない。霊と書かれていて、なんとなく幽霊のようにふわふわ浮遊している得たいのしれないものを想像してしまいそうだけれど、それよりも聖霊は神の力という風に考えるとわかりやすいと思う。神は聖霊という形で弟子たちを力づけるということだろうと思う。
私たちにはイエスも見えない。聖霊も見えない。見えないけれども神は私たちを力づけてくれる、見えないけれども神はいつも、どんな時も私たちと一緒にいてくれる、そのことを聖書は伝えているのだと思う。
逆転
弟子たちは自分の人生をかけて従っていた師匠を悲惨な十字架で亡くしてしまい、進むべき道を見失っていた。また命をかけてついていくと豪語していたにも関わらず十字架を前にして見捨ててしまったという自分自身のだらしなさや不甲斐なさに打ちのめされてもいたに違いないと思う。また十字架で処刑された重罪人の弟子という汚名まで着せられ、共犯者としての危険もあるというような悲惨な状況だった。そこで誰にも見つからないようにみんなで隠れていた。
出会い
しかしそんな弟子たちが、その後イエスこそキリストである、救い主であると伝え始める。びくびくしていた弟子たちが突然元気に勇敢になった。かつてのイエスの姿を思い描き、かつてのイエスの言葉をもう一度聞き直す、そんな心の中でのイエスとの再会があったのだろうと思う。そしてそれこそが復活のイエスとの出会いであり、そのイエスとの出会いによって弟子たちは元気になっていったのだろう。
かつてのイエスは病気の者や罪人とされた者、汚れていると言われている者、そんな社会から見捨てられ除け者にされている者のところへ出かけていった。生きる希望を持てないような人の所へ行き、あなたたちは愛されていると伝え、絶望している人達に生きる力を与えてきた。
復活のイエスに出逢う前の弟子たちは、イエスが出かけていった人達と同じように絶望するしかないような状態だった。しかし絶望の中で弟子たちは復活のイエスと出会ったのだ。
弟子たちは絶望する者たちのところへ出かけていくイエスの姿を心の目で見たのだろう。そして絶望している自分の所へやってきたイエスを見たのだろう。かつて語っていたイエスの言葉を彼らはそこでもう一度噛みしめたに違いないと思う。そんなイエスとの出会いによって弟子たちは生きる力を与えられた。それこそが復活のイエスとの出会いなのだと思う。
先に召された方たちもイエスの言葉を聞いて力を与えられてきた。聖書を通して、またいろんな話しを通して、イエスの生き様を聞き、イエスの言葉に触れてきた。それはまさにイエスとの出会い、復活のイエスとの出会いとも言えるものだったのだと思う。
私たちが今イエスの言葉を聞くことは、イエスと出会うことでもある。このイエスの言葉は、先に召された方たちを力付けてきたように、私たちも力づけるものでもあると思う。イエスの言葉を聞くことは心の中でイエスと出会うことでもある。そして心でイエスと出会うということは、私たちがどこにいても、どんな時も、いつまでもイエスと一緒にいるということだ。
そのイエスは見えないし、人に見せることも出来ない、しかし一緒にいてくれる。そして何があっても、どんな時も、たとえ私たちが死を迎える時も、私たちを決してひとりぼっちにはしない。それがイエスの約束だ。
私たちが死を迎える時、私たちがどうなるのかよくは分からない。分からないけれどもイエスはそんな時も一緒にいてくれる。分からないけれども私たちはこのイエスにすべてを任せることができる。
先に召された人達もそんな思いで死を迎え、そして今もイエスと共にいるのだと思う。私たちもこのイエスと一緒に希望を持って安心して生きていきたいと思う。