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礼拝メッセージより
「踏みとどまる」 2015年3月22日
聖書:ルカによる福音書22章24-30節
教会
明治以降、所謂知識人と言われるような人たちが教会に来るようになったそうだ。そしていつしか教会とは立派な人達が集まるところというようなイメージができているような気もする。
教会ってどんな人の集まりなんだろうか。立派な人の集まりなのか。それとも一人では生きていけないような弱い人間の集まりなのか。
本来はきっといろんな人がいるのが教会なんだろうと思う。立派な人もいれば、社会からのけ者にされているような人の集まりでもあるのだろう。誰でも来れるのが教会であってほしいと思う。教会は誰が来てもいいんですよ、と言う。でもそう言っているから誰でも来れるかというとそうとは限らない。
「教会では私のような者が来ることをいやがっている、だから来ない」という人がいた。自分のような社会的には一人前でない、常識のない、ろくでなしが来ることを教会の人は迷惑がっている、と言っていた。もちろん誰かに面と向かって言われたわけではないが、態度を見ていれば分かる、だから日曜日には来ないと言っていた。
昔聞いた話しだけど、あなたの教会に障害者はいますかというアンケートをとったら、私の教会には幸い障害者はいませんと答えた所があったそうで、それに対して障害者がいないのは幸いだなんていうのはけしからん教会だ、ということだった。じゃあそう言っている教会が誰でも来れるようになっているかどうか、どんな人が来ても安心してそこに居れるような教会かどうかと考えると、簡単にそうだとは言えないという気がする。いつの間にか教会は立派な社会人じゃないと入りにくい、間違いや弱さや後ろめたさを持ったままでは入りづらいような集まりになってしまっているのかもしれないと心配している。
最後の晩餐
今日の聖書はイエスと後に使徒と言われるようになるすぐ側にいた12弟子たちとの過ぎ越しの時の食事での出来事だ。過ぎ越しとはユダヤ人の先祖たちが奴隷として苦しんでいたエジプトから、神に助けられて脱出したということを記念するお祭りだ。
イエスが食事をしたことがたびたび福音書の中に出てくる。そして十字架につけられる前の最後の食事が丁度過ぎ越しの食事だった。
イエスは度々徴税人や罪人とされる者たちと共に食事をした。社会からのけ者にされている者たちと共に食事をしていた。神にとって、神の国にとっていかにもふさわしくないだろうとみんなが思っているような者たちと共に食事をした。そして周りの者からもそういう風に非難されていた。
しかしイエスの周りにはいつもそのような者たちがいた。立派な常識人だけがいたのではなかった。立派な信仰者ばかりではなかった。むしろそうでない者たちばかりだった。社会的には落伍者、脱落者、落ちこぼれと言われるような者たちがイエスの弟子となっていた。
過ぎ越し祭
イエスは最後の食事でパンを取り感謝の祈りを唱えて、これはあなたがたのために与えらるわたしの体であるという。そして杯は、これはあなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である、という。
もともと過ぎ越し祭は、アビブの月(捕囚後の暦法ではニサン)の1日に一歳の雄の小羊を選び、14日の晩にそれをほふり、その血を入口の柱と鴨居に塗った。エジプトを脱出するときその血を塗った家は神の災いが過ぎ越していったということからその後過ぎ越し祭と呼ばれるようになった。そして肉は焼肉にし、過越の小羊として食べた。
その翌日15日から1週間を「除酵祭」として、つまり種をいれないパンを食べる祭りとして守ったという祭りだった。種入れぬパンはエジプトから急いで脱出しなければいけなくなり、イースト菌を入れて発酵させる時間がなかったので、イースト菌を入れないパンを焼いた。そこからイースト菌を入れない固いパンを食べて、かつて神がエジプトから自分たちの祖先を救い出してくれたことを記念するという祭りだった。
裏切り者
イエスは十字架に着けられる前の最後の食事を12弟子たちと共にした。しかしこのイエスの弟子の中には裏切り者がいたというのだ。裏切り者と言われるイスカリオテのユダがそこにいた。しかし裏切り者はユダだけではなかった.。十字架を前にして弟子たちは誰もがイエスを見捨てて逃げてしまった。そういう点では弟子たちみんなが裏切り者だった。
そんな裏切り者をイエスは弟子としていた。そして最後まで一緒にいた。最後の食事まで一緒にいた。そんな弟子たちであったが、イエスはその弟子たちを捨てない。ずっと一緒にいる。十字架を前にして弟子たちはみんなイエスを見捨てて逃げた。でもイエスは弟子たちを切り捨てることはなかった。
弟子たちは、われこそはどこまでも先生についていく、ということを勇ましく語った者もいた。過ぎ越しの食事の時に誰が一番偉いかといことで議論が起こったという。以前にも誰が偉いかといってもめたことが書かれている。それはまるで人間が生まれ持った習性でもあるかのようだ。
しかしイエスは、異邦人の間では王や権力者が民を支配し権力を振るうが、あなたがたは一番偉い人は、一番若い人のようになり、上に立つ人は、仕える人になりなさい、という。社会の常識では権力を持っている者が威張っているが、あなたたちは逆に偉い人ほど仕える人になりなさい、と言った。
他の者よりも偉く見られたい、上に見られたい、立派に見られたいという気持ちがあるのはどうしてなのだろうか。
踏みとどまる
28節に「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」と書かれている。
イエスが試練に遭ったときに弟子たちは踏みとどまったんだろうか。弟子たちにそんな意識はあったのか、あまりなかったんじゃないかと思う。でもイエスにとっては弟子たちがそこにいてくれたことは嬉しいことだったんだろう。ひとりではない、ひとりぼっちではないということは嬉しいことだ。病気になったときやつらく苦しいとき、そこに一緒にいてくれる人がいることは本当に嬉しいことだ。
イエスはいちばん偉い人は仕える人になれといった。それはどこまでも一緒にいる人になること、そこにずっと踏みとどまる人になることではないかと思う。
偉くなりたいというか、みんなから一目置かれるようなすごいことをして、ちやほやされるようになればいいなあ、ついでにそれで金持ちになれればいいなあなんて思う。ちやほやされて舞い上がっていきたいというような気持ちだ。
でもそうなったら、豚もおだてりゃ木に登るというように上に上に舞い上がっていくだろうなと思う。
そうなりたい気持ちも強い。でもイエスは仕える者になれと言っている。舞い上がることよりも、そこに踏みとどまっていることの方が大切なことなのだと言われているのだろう。今一緒に生きている人から離れて舞い上がっていってしまうことよりも、これからも一緒に生きていくこと、ここに踏みとどまって一緒に生きていくこと、それこそが大切なことだと言われているようだ。
イエスは、自分の語る事をなかなか理解できない、誰が一番偉いかと言い争う、そして自分を裏切る、そんな弟子たちとずっと一緒にいた。踏みとどまっていたのはイエスの方だと思う。イエスはそうやって弟子たちを愛し、仕えてきた。
私たちも舞い上がりたくても舞い上がれない、地べたを這いつくばって生きていくしかない、そんな者たちでもあるような気がする。自分の罪や汚れ、だらしなさや無能さや無力さや弱さ、そんなものをかなぐり捨てて舞い上がりたい、けれども舞い上がれない、ここで生きていくしかない、それが私たちの実体ではないかと思う。
しかしそんな私たちとイエスは一緒にいてくれている。イエスはそんな私たちのところに踏みとどまってくれているのだと思う。
だからあなたがたは、今生かされている場所に踏みとどまって生きなさい、私と共に、また隣人と共に愛し合い、仕え合い、しっかりと生きなさい、イエスはそう言われているように思う。
い、イエスはそう言われているように思う。