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礼拝メッセージより
「ひとりじゃないって」 2015年3月15日
聖書:ルカによる福音書19章1-10節
エリコ
今日はエリコの町にいたザアカイという人がいました。今でもエリコにはザアカイの木と幹の直径が1m、高さが30m位のいちじく桑の木があるそうです。果たしてそれが本当にザアカイが登った木なのかどうかは定かではありませんが。
ザアカイは徴税人の頭で金持ちであったと書かれています。聖書の中に徴税人は何回も出てきますが、当時、このイスラエルの地方はローマ帝国の支配下に在り、ローマに税金を払っていました。そして聞いたところによると、税金を集める方法が今とは少し変わっていたそうです。それは、その地域のみんなの税金をある人が先ず全部払って、その後で個人個人からその人の分の税金を集めるという方法だったそうです。その最初にまとめて全部払って、あとでみんなから集める人が、すなわち徴税人という訳です。そうやって税金を払っていたのですが、みんなの分をまとめて払うなんてことが出来るのは当然金持ちしかいないわけです。
そしてこの徴税人が、個人的に税金を集めるときに、本来の税金よりも多く集めれば、その分は徴税人本人のふところに入るという仕組みになっていたようです。徴税人の多くがそうやって誤魔化して税金を集めていたらしくて、一般の貧しい人達にとって、ローマの手先としてローマの為に働いているだけでも憎らしいのに、その上税金を誤魔化して儲けている徴税人は悪の象徴のようなもので、遊女と並んで罪人の代表のように思われていたようでした。
そんな徴税人の頭であるザアカイも当然のようにみんなからは嫌われていたようです。
ザアカイは自分が住んでいたエリコにイエスが来るという噂を聞きつけて通りにやってきてその噂の主を見てみようとしたのでしょう。しかし、そこにはもう人垣ができていたようで、ザアカイは背が低かったために見えなかったと書かれています。
みんなから慕われていたならば、「さあ前にどうぞ」と言ってくれたような気もしますが、この時のザアカイは逆にはじき出されてしまったのではないかなという気がします。「おまえなんかの来るところじゃない、向こうに行けよ」と言われたかもしれないなと思います。
仕方無く彼は先回りして、大きないちじく桑の木を見つけて、その木の上からイエスさまを見ようと待ち構えます。そんなに若くはなかったんじゃないかと思いますが、いい大人が木に登ったというちょっと滑稽な状況になりました。
突然
人垣が出来るほどに当時はイエスの評判は良かったのでしょう。ザアカイも他の人達と同じように、イエスがそれまでにどんな事をしてきたか、どんな話をしてきたかをいう噂を聞いていたんだろうと思います。それで多分少しは気になる奴だとは思っていたのでしょう。顔くらいは見ておこうと思ったのかもしれません。でも多分その時、それ以上の関わりを持つつもりもなくて、持ちたいとも思ってなかったのではなくて、ただどんな姿なのかを見たかっただけだったのだろうと思います。
ところがこともあろうに、そのイエスが木の下に来たときに、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」なんてことを言い出します。
ザアカイはもちろんイエスから声を掛けてくれるなんてことは予想もしていなかったでしょう。ましてや、自分の家に泊まるなどということは夢にも思っていなかったでしょう。だから、いきなり「お前の家に泊まる」と言われた時にザアカイは「まじ?」と言ったかどうかは分かりませんが、とにかくびっくりしてしまったに違いないと思います。まわりの人達も同じように自分の耳を疑ったんじゃないかと思うんです。皆が「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやいたと書かれています。「うそだろ、こんなやつの所に泊まるのか?」なんてことも言ったんじゃないかと想像します。
しかしそんなまわりのことなどおかまいなしに、ザアカイは急いで木から降りてきてイエスを自分の家に迎え入れます。
お金
そしてこのイエスとの出会いがザアカイの生き方をも変えてしまいました。それまではどうすれば金を貯められるか、どうすればうまく税金をいっぱいごまかすことができるか、そんなことばかり考えていたのでしょう。そのためにまわりの人からどんな風に言われようと構わない、お金がいっぱいあればいいんだ、お金がいっぱいあれば幸せになれるに違いないと思っていたのでしょう。
ところが、そんなザアカイが、財産の半分を貧しい人に施し、不正をしていたら4倍にして返すと言う人間にと変わってしまいました。それもたった一日のうちに変わってしまったのです。
救い
イエスは「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。今日が救いの日なのだとイエスは言っています。しかしこの日ザアカイがしたことは、ただイエスを迎え入れただけなのです。ザアカイはまだ財産を貧しい人に施してもいないし、不正をして得たものを返してもいないのです。まだ何もしていません。でも今日が救いの日だ、とイエスは言うのです。イエスは不正を全て返した日が救いの日だとは言ってはいません。ただイエスを迎えた今日が救いの日なのだと言うのです。
不安
ところでザアカイはどうして徴税人なったのでしょうか。
はっきりとしたことは分かりませんが、その理由の一つがザアカイの背が低かったことかもしれません。背が低いということに対する劣等感が強かったのかもしれないと思います。
ひと頃もてる男の条件が3高だと言われていました。高学歴、高収入、高身長の男がもてると言われていました。ユダヤの地方にも身長が高いことに価値があるという意識があったのではないかと思います。
昔ユダヤの国に王を立てるとなった時に最初の王として選ばれたのがサウルという人でした。旧約聖書のサムエル記にそのことが書かれていますが、このサウルはどうも飛び抜けて背が高かったようです。そしてサウルが王に選ばれた理由が、実は背が一番高かったからではないか、という説があるそうです。きっとザアカイの時代にも背が高い人をもてはやす風潮があったのでしょう。その分背が低い人は、それだけで馬鹿にされたりいじめられたりしてたんじゃないかと思います。
背が低いことだけではないのかもしれませんが、とにかくザアカイは自分は誰からも評価されない、誰からも認められない、という劣等感を感じていて、そんな社会に対しても反発していたのではないかと思います。だからこそみんなから嫌われようと知ったことかと悪ぶって徴税人となったのかもしれないと想像します。そしてお金を貯めることに一所懸命になって実際に金持ちになったのでしょう。
でもお金をいくら貯めても満たされないものをザアカイは感じていたのだろうと思います。やっぱり淋しかったんじゃないかなと思います。お金では満たせないものを感じていたんでしょう。そこにイエスがやってくるという話しを聞き、是非見てみたいと思ったのでしょう。どれほどのものを期待していたのかは分かりませんが、とにかく何か満たされないものがあって、何かを求めていたのでしょう。だからこそいちじく桑の木に登ってまで見ようとしたのでしょう。
そんなザアカイにイエスは声をかけました。この聖書では「ぜひあなたの家に泊まりたい」と訳していますが、原文では「私は泊まらねばならない」という言い方になっているそうです。
イエスが泊めてくれと言って、それをザアカイが泊めてあげたから救いがきたというのではなく、イエスは最初からザアカイのところに泊まりにきた、救いを持って来たということのようです。たとえザアカイが何と言おうと泊まるんだ、何が何でも泊まる、私はそのために来た、イエスはそう言っているということです。
イエスがわざわざ自分のところへ来てくれたことで、背も低くて自分は誰からも認められないという劣等感や、お金では埋められない淋しさや空しさが一気に吹き飛んで、嬉しくて嬉しくて仕方ないようです。
ひとりじゃないって
イエスは私たちに対しても、あなたに会いに来た、会わねばならない、私はそのために来たのだ、そう言われているのではないでしょうか。
私たちもいろんなコンプレックス、劣等感をもって生きています。こんな自分では駄目なんだ、こんな自分は誰にも認められない、という恐れと淋しさを持っているのではないでしょうか。結局自分のことを分かってくれる人なんて誰もいないと一人でうずくまっているではないでしょうか。生きる希望もなくて死ぬことばかり考えているのかもしれません。
しかしイエスはそんな私たちに、あなたに会うために来たのだ、あなたを探して来たのだ、さああなたの心の扉を開けて私を中に入れてくれ、そう言っているのではないでしょうか。
イザヤ書7章14節にインマヌエルと言う言葉があります。イエスさまの誕生の預言として、マタイによる福音書の1章にもあります。インマヌというのは私たちとともにと言う意味です。そしてエルは神の意味です。つまりマタイに書いてあるようにインマヌエルで「神われらとともにいます」と言う意味になります。この言葉が示すように、神は私たちをいつも共にいて下さり、私たちをやみの中に放っておくことはないのです。そして今日も今も共にいて下さるのです。
たとえ誰からも見捨てられて、こいつはもうだめだ、手の施しようがないと言われ、ひとりぼっちになったとしても、神さまはそんな私たちをわざわざ見つけだしてくれるのです。「人の子は、失われたものを捜し出して救うために来た」という通りです。
♪ひとりじゃないって、素敵なことね♪なんて歌がありました。古い?
ひとりというのはとてもとてもつらいことで、ひとりじゃないってのは本当に素敵なことだと思います。
あなたはひとりぼっちじゃない、私はあなたを決してひとりぼっちにはしない、イエスは私たちにそう語りかけてくれています。