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礼拝メッセージより
「うめき」 2015年3月8日
聖書:ルカによる福音書18章9-14節
お祈り
祈りってなんだろうと特に最近よく思う。祈る事が苦手だ。特に人前で祈るのが嫌いだ。なんて話しをこの前の牧師会でした。牧師がそんなこと言っていいのかという思いも少しあったけれど、でも自分の本当の気持ちを出したことで重荷が軽くなったような気がしている。
二人
今日の聖書のイエスの譬えの中に二人の人の祈りが出てくる。
ファリサイ派の人は神を崇拝し、律法を守り、実践し、神の民を指導していた、少なくとも自分ではそう思っていた人であった。また神殿を自分の家のように身近に感じてもいたであろう。今でいうならば牧師とか役員とか、敬虔なクリスチャンと言われるような人のことだと思う。
一方、徴税人はローマ帝国のために税金を徴収していた人だ。ユダヤ人社会から見れば、占領国のために働く裏切り者だった。しかも本来集めるべき金額よりも多めに集めて自分のふところに入れる人が多くいたらしく、余計に一般のユダヤ人たちからは嫌われていたそうだ。そして一般のユダヤ人たちは徴税人たちを罪人と同じように見下していたそうだ。
ファリサイ派
ファリサイ派の人は自分を罪なきものとして祈っている。彼は自分がいかに正しく生きているかということ、この徴税人の様な罪人でないということを感謝し、そして自分がいかに律法を忠実に守っているかということを自信たっぷりに神に報告し、また週に二回の断食を欠かしたことはないと言う。でも旧約聖書の律法にはそこまでは書いていないそうだ。ファリサイ派の人達の間ではそうすべきだと言われていたのか、あるいは律法に書かれている以上のことをしているという自慢なのかもしれない。そしてそれに続いて全収入の十分の一を捧げなかったことは一度もないと言う。彼はこのように誇らしげに祈ったというのだ。
徴税人
一方徴税人は目を天に向けようともしないで胸をうちながら言った、と書かれている。自分の罪に打ちのめされて、しばらく声も出なかったということだろうか。神に対して顔向けできないという気持ちなんだろうと思う。そして『神様、罪人の私を憐れんでください』とだけ祈った。
ノックアウト寸前というか完全にノックアウトされてしまっているかのようだ。何があってそうなったのかは分からないけれど、とにかくもうどうしようもなくなっている状況なのだろう。
しかし、イエス様はこの二人の内、神に義とされたのは徴税人であり、ファリサイ派の人ではないと言った。
祈り
もちろんファリサイ派の人も真剣に律法を守り、真剣に祈ったことと思う。自分は正しいことをしている、こうすることで神に義と認められている、これこそが神に従う道だと信じていたのだろう。
しかしながらいつのまにか彼は神により頼むよりも、自分はこんなにもできた、こんなに完璧に出来る人間だ、といったように、できる自分を自慢し、出来る自分であることを頼りにしているようだ。
徴税人も祈る。立派なかっこいい、きれいな祈りではない。恐らくほとんどうめきだったのだろう。しかしイエスはこの徴税人の祈りこそ神は義とされた、正しい祈りだとされたというのだ。ただ憐れみを請うしかない、赦しを乞うしかない、助けを求めるしかない、そんな祈りを神は義とされるというのだ。
彼は神に誇るようなものは何もなかったのだろう。神に頼むしかない、神にすがるしかなかったのだろう。罪人のわたしを憐れんでください、赦してくださいとしか祈れない、そのような者を神は義とされる、ただしいと認めてくれるというのだ。
このファリサイ派の人とは一体誰のことなのだろう。私たちにもこのファリサイ派の人の思いと同じものを持っているのではないか。
私たちは、いつも他の人より上にいるか、それとも下にいるか、そんな自分の相対的な位置をいつも気にしている。いつも周りと自分を比較して、そして自分の方が上だと思うときは、やっぱり俺の方がいい人間だ、なんて安心したり、威張りたくなったりする。そういう時、やはり回りの人たちの中に、色々な罪とか、おかしなところとか、自分の気に入らないところばかりが目についてしまう。自分のことは棚に上げて回りの人の悪いところばかり見てしまう。教会はこうあるべきだとかかっこいいことを言う時には、俺はこんなにいいことを考えているんだぞ、偉いだろう、お前らとは違うんだぞ、なんてことを思ったりする。
うめき
逆に自分の間違いを指摘されたり、自分のしたことや言ったことを非難されたりするとすぐ落ち込んでしまい、もう何もする元気もなくなり、ただただうずくまるしかないような思いになってしまう。そしてどうして自分はこんなに駄目なんだろう、と自分を責めて、自分の無力さを嘆き、自分自身のことを裁いてしまう。そんなことをしても深みに嵌まるだけだけれど、自分の駄目さ、だらし無さに辟易してしまい、ただただ疲れてしまう。
しかしこの徴税人はまさにそんな思いで神殿にやってきたということなんだろうと思う。この人は罪人のわたしを憐れんでください、と祈った。私の罪を、ではなく、罪人のわたしをと言った。自分にも罪の部分があってその罪を赦して欲しいというようなことではなく、自分は罪の塊であってもうどうしようもない、こんな罪人である自分を憐れんで欲しいということだ。憐れむ、とは同じように痛み苦しむということだそうだ。自分の無力さと駄目さに打ちのめされて苦しんでいる、その苦しみを分かってほしい、この苦しみから助けて欲しいとうめいているということのようだ。
そしてこの人が義とされた、とイエスは言う。その人をただしいとされた、それでいいんだ、あなたは自分で自分のことを駄目だと言っているが、神はそれでいいんだ、あなたは駄目ではないんだと認めている、ということだ。
米子さん
生きることが虚しくて、希望もなくなり、電車に飛び込んで自殺未遂をした女性がいた。しかし死にきれず、両足と片手を切断して病院のベッドに寝かされて何日も何日も天井ばかり見つめていたそうだ。彼女の病室へ聖書を持って現れ、キリストの話をする人もいたが、彼女は自分の体の事を知り、余計に生きることがいやになり、どうして死ねなかったのか、どうにかして死ぬことは出来ないものかと考えた。彼女は眠れないと言って睡眠薬をもらってためておいて、それを一度に飲んで死のうと考えた。そして薬が集まって、それを飲もうと決心したその夜、彼女は何回か聞いた聖書のことを思い出した。その夜、彼女は初めて祈った。その祈りは「神さま、もし本当にいるのなら救って下さい。」というものだった。いつの間にか彼女は眠ってしまい、気がつくと朝になっていた。久し振りにぐっすり眠ったそうだ。そしてその朝から、周りのもの全てが昨日とは違って輝いて見えたそうだ。一言「もし神さまが本当にいるのなら救って下さい。」と言う祈りだった。しかしその祈りから彼女は全く変えられていった。助けを求める、救いを求める相手を見つけたことで彼女は変わったんだろうと思う。
もちろん祈ったからといって身体が元に戻ったわけではない、状況は何も変わっていない、見えるものは全然変わっていない。でも祈った事でというか、助けてくれと祈る相手を見つけたことで、彼女はそれまで自分ひとりでかかえていた苦しみや重荷を神に預けるというか、一緒にかかえることができるようになったんだと思う。だから次の日景色が違って見えたんじゃないかと思う。
罪人の私をゆるしてください、神さまが本当にいるなら救って下さい、そんなうめき、それも祈りだ、それこそが祈りだ、と言われているような気がする。
祈り
今日の話しを聞くと、徴税人の祈りの方が正しい祈りなので、自分も徴税人のように、罪人のわたしを憐れんでください、と祈るべきだなんて思ってしまいがちだ。
キルケゴールという思想家が今日の聖書の箇所について、われわれはこの取税人の祈りをするときに心のどこかに、「神よ、わたしはこのパリサイ人のような人物でないことをあなたに感謝します」と祈っているのだ、と言っているそうだ。
徴税人の祈りの方が正しいんだぞ、と逆にファリサイ派を見下してしまう気持ちが出てくるということだろう。どっちにしても見下してしまうと言う悲しい習性があると思う。じゃあどうすればいいんだという気持ちになる。
こんな自分ですいませんと言うしかない、そう祈るしかないんだろうと思う。自分が正しいと思うと思い上がってしまい、謙虚になったと思ったとたんその謙虚さを自慢してしまう、そんな私たちだ。
でもそんな自分自身を見つめることが大事なんだろうと思う。そんな自分でしかないということをしっかり見つめて、こんな自分ですがどうか憐れんでくださいと祈るしかないのだろう。
自分の正体を本当に誠実に見つめると私たちは言葉を失うしかないように思う。綺麗な言葉で祈るなんてできなくてうめくしかないように思う。
でもそれでいい、その祈りを聞いている、イエスはそういわれているんじゃないだろうか。
こんな惨めな自分ですいません、でもこんな自分を憐れんでください、助けてください、私たちはそう祈るしかないし、そう祈っていけばいいんだろうと思う。
牧師に祈ってもらえば、というようなことを言われることがあるけれど、人前で祈るのが嫌いな理由の一つが、自分の祈りに自信がないということだろうなと思っている。祈り願えばそのようになるとか、祈ってどうかなる、何かが変わる、という自信があればどうどうと祈れるのかもしれないが、そんな自信は何もない。
でも今日のところを読んで、自信なんてなくていい、そのままに心のままに自分の思いをぶつければいいんだと言われているような気がしている。かっこつけなくていい、不安や心配やうめきや嘆きをそのままにぶつけていいんだ、それこそが祈りだと言われているような気がしてちょっとホッとしている。