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礼拝メッセージより
「友達をつくりなさい」 2015年3月1日
聖書:ルカによる福音書16章1-9節
財産
先週は放蕩息子のたとえ話で、弟が自分に分けてもらった財産を使い果たして帰ってきたという話しだった。
そして今日のところでは主人の財産を管理している管理人が不正をしたという話しだ。
何だかルカによる福音書ではお金の話しがよく出てくるような気がする。この福音書をまとめたルカはお金とか財産とかのことに殊更関心があったのだろうか。
たとえ
ひとりの管理人が主人の財産を無駄遣いしたことがばれてしまった。彼は解雇されることになったが、その後のことが不安である。土を掘るような力仕事もできない、かといって物乞いをするのも恥ずかしい。そこで彼は主人に借りのある人達の借りを少なくして、その人たちに友達になってもらおうとした。不正をしてまでも友達を持とうとした。すると主人はこの管理人のやり方をほめた、そんなたとえ話だ。
イエスは不正にまみれた富で友達を作りなさい、と言っている。本来は不正の富と言うよりもこの世の富というような意味らしいが、この世の富で友達を作れという。そうすれば永遠の住まいに入るてもらえるというのだ。
友
しかしなぜこの管理人のやり方が褒められているのだろうか。
この人はそれまできっと自分の力で生きてきたのだろう。自分ひとりの力で生きてきて、これからも自分ひとりの力で生きていけると考えていたということなんだろうと思う。
自分は立派にやってきた、これからもやっていける、人に頼る必要などない、と思っている時、自分一人で生きていけると思っている時には、周りに頼ろうとすることもない。自分はこんなに立派にやっていると思っている時には周りを見下すのが関の山だろう。周りの者と友達になろうとすることもない。誰かと友となろうとすることもない。あるいは困っている誰かの友になってやらねばということはあったとしても、誰かに是非とも自分の友になってほしい、という話しにはならない。
しかしとても自分一人では生きていけないと言うときには、誰かに助けてもらいつつ生きていかねばならない。なんとしても友が必要になる。誰かに是非友になって欲しい、というその気持ちでいること、それこそが大切なことだ、とイエスは言っているようだ。自分にとっては友が必要である、なんとしてもその友を持たねばならない、そうやって友との繋がりを持たないとやっていけない、そのことを知ること、それは永遠の住まいに入れてもらうこと、神の国に入れてもらうことにもつながることだ、と言ってるような気がする。
実際私たちは、誰もが自分一人では生きていけない、誰かと助け合いながら生きていくしかない生き物だ。助けたり助けられたりしながら生きていくしかないのだ。自分も助けられる人間であることを知ること、また自分も支えられる人間であること、それを知ることがまた大事なことなのだろう。
この世の子ら
イエスは、この世の子らは自分の仲間に対して光の子らよりも賢く振る舞っている、という。光の子らとは、神のことを知っている、神のことを信じている者ということだろうか。知っている、信じていると思っている者と言った方がいいかもしれない。
自分たちは神のことは良く知っている、おまえ達とは違うのだ、という思いを持っている者のことかもしれない。俺達は神のことを知っている者、おまえ達は知らない者、俺達はお前達よりも優れているんだ、だからおまえ達の世話になどなる必要はない、おまえ達と友達になる必要もない、と思っている人のことだろうか。自分は立派な信仰を持っているんだ、と思っている人のことだろうか。自分は信仰を持って正しく生きているのだから、正しくないことをしているあなた達とは友達にはなれないのだ、と思っている人のことかもしれない。そう思って自分の持っている信仰、自分の持っている正しさを一所懸命に守ろうとしている者のことかもしれない。
私たちは信仰においても財産においても、自分の持っているもので自分を守ろうとするところがあるのではないか。純粋な汚れのない信仰や、間違いを犯さないという正しさ、あるいは多くの財産、確かな地位や名誉、そういうものを自分自身がしっかりと持つことで自分を守ろうとすることが多いのではないかと思う。
しかし人間はそんなものを持つことはなかなかできない。きれいな立派なものばかり持てない者にとっては、つまり自分の力だけで自分を守れない者にとっては、友を持つことはとても大事なこととなる。友との関係を持つことがとても大事なこととなる。
自分は立派で正しいと思っている者や自分を立派に正しくするかということに一所懸命になっている者はどうしても自分のことばかりを考えることになる。逆に自分には何もないと思っている者の方が却って周りとの関係を大事にしている、そういう者の方が賢くふるまっている、ということをイエスは言っているのではないかと思う。
目
この管理人は自分の不正がばれて、自分の地位が危うくなってきたことによって自分の見つめるところが変わってきたのだろう。それまでは自分自身のこと、自分の持ち物、つまり自分の地位や自分の財布の中身を一所懸命に見てきたのではないか。しかし自分の不正がばれるという危機に直面してから管理人は周りの者を見るようになった。周りの者とどうつきあっていくかということを考えるようになったのだろう。
それまでは自分の管理している財産を貸す相手でしかなかった者たちであったが、この時から友として見るようになった、友となって欲しいという目で見るようになり、友のために出来る限りのことをしようと思うようになったのだろう。
自分の危機に直面して初めて彼は主人に借りのある者たちのことが目に入ったということかもしれない。彼らが苦しい生活をしていることはもちろん理解していたのだろうが、このとき初めて彼らの苦しみに気づいたのではないか。彼らの苦しみを多少でも軽くすることを考えた。そうすることで友となってもらうことを考えた。
彼は自分が解雇されそうになった時に、ここぞとばかりに不正を重ねて自分の蓄えを増やすことはしないで友を持つことを考えた。彼は自分の将来をお金に託すのではなく、友との関係に託したわけだ。
関係
私たちも自分のことにばかり注目することが多い。自分の持ち物にばかり注目することが多い。自分の立派さを追求することが多い。
自分の名声をあげること、財産を多くすることにはとても熱心だ。自分がどう立派になるか、立派であるかということには目が向いている。
自分の立派さを追求することよりも、周りとの関係を大事にするように、とイエスは言っているのではないか。自分が大きく立派になることよりも、友を得ることの方が大事であると言われているようだ。友となるためには相手をしっかりと見つめないといけない。相手がどうであるかを知ることなしには友とはなれない。相手の苦しみや悲しみを見つめることなくしては友とはなれないだろう。そんな周りとの関係を大事にするようにとイエスは言われているようだ。自分が立派になるかどうかよりも、周りとの関係をしっかりと持つこと、それこそが大事なことなのだ、とイエスは言われているのではないか。
それは信仰的なことでも同じだろう。自分がいかに立派な信仰を持っているか、確固とした揺るがない堅い信仰をもっているかどうかということの方に目が向きがちだ。しかし大事なのは私たちがどれほど固い信仰を持っているかということよりも、神との関係がどうであるかということだ。神に助けてもらわねば、支えてもらわねばならない人間であることを知ること、だからこそ助けを求める、支えを求める、そんな関係こそが大事なのだろう。
イエスは、友達を作りなさいという。友達になりなさいという。友達同士助け合って生きなさい、喜びも悲しみも大変さも分かち合う、そんな友達となってお互いを大切にしあって生きなさい、相手にとって何がうれしいことなのか、何が助けになるのか、それを一所懸命に考えなさい、そんな友達を作りなさい、それは自分が立派になることよりも余程大事な、そして嬉しいことだ、イエスはそう言われているんじゃなかろうか。