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礼拝メッセージより
「そのままを」 2015年2月22日
聖書:ルカによる福音書15章11-32節
罪人
ルカによる福音書15章の最初を見ると、イエスの周りに徴税人や罪人が近寄って来ることに対して、ファリサイ派や律法学者たちが、この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている、と不平を言い出した。
それに対してイエスは、羊飼いは一匹の羊がいなくなったら99匹を残して捜しに行き見つかったらみんなで喜ぶとか、銀貨10枚持っている人が一枚なくしても家中探し回ってそれを見つけたら友達や近所の人と一緒に喜ぶ、そのように一人の罪人が悔い改めることは大きな喜びなのだという話しをして、それに続けて今日の放蕩息子の話しが出てくる。つまりこの譬えはイエスはどうして罪人たちと一緒にいるのかということに対する返事でもある。
放蕩
話しは分かりやすい。ある人に二人の息子がいて、弟は財産を分けてもらって放蕩の限りを尽くして財産を全部使い、どうしようもなくなって親父に雇ってもらおうとして家に帰ってきたら、弟の予想に反して大喜びして宴会を始めた。兄の方は父親の下で真面目に働いていたが、そんな父の振る舞いに文句を言ったら、父親は弟は死んでいたのに生き返ったんだから当然だと言った、というような話しだ。
面子
出て行った息子が帰ってきたんだから、そりゃうれしかろうとは思うけれど、こんな風にただ甘やかしていていいのか、こんなことしてたらつけ上がって、ろくな人間にならないんじゃないか、親父としてもっと毅然とした態度を取るべきじゃないか、という気がする。嬉しいから単純に喜んで宴会をするなんて、親父としての威厳もないじゃないか、それに周りに対する面子も関係ないのだろうかと思う。
受け止める
「若い父親のための10章」という本を思い出す。若い父親のために書かれた本で、こんなときはこうしよう、これはこうしよう、ととても参考になることが書いてある小さな薄い本だが、その中のある章に『家族のために祈ることを止める』とかいうところがある。その人が言うには、「ある時まで私はいつも、妻のあの悪いところが良くなりますように、あの子どもの悪いところがよくなりますように、家族のあそこを変えてください、ここを変えてください」という祈りばかりをしていた、と言う。でもある時それは間違っていると気付いてそれからはそんな祈りは止めた。そしてそれからは、妻のために私に何ができるか、子どものために私に何ができるか、と祈るようになった。それまでは家族の悪いところばかりが目について腹を立ててばかりいたけれども、それからは、家族に対する見方が変わってきた、ということだった。
私たちはすぐに人を変えてやろう、変えてやろうとする。駄目なところをただしてやらなければと思う。ぐたっとして、くたびれている疲れている挫けている人を見ると、立ち直られせてやらねば、なんて思う。そして立派に立ち直れば認めてやろうと思。
また自分に対しても、こんな自分では駄目だ、もっと良い人間に、立派な人間にならなければ誰からも認められない、神からも認められない、と自分で自分を責めているのではないか。
でも、この聖書の父親はとことん子どもを受け入れている。自分に逆らい悪に染まり、打ちのめされて倒れてしまっている、なんともだらしない、そんな子どもの駄目さも何もかも全部ひっくるめて受け入れている。傷ついている、倒れている、そのままの子どもを受け入れている。また文句を言う兄に対しても、咎めたり、責めたりしていない。とにかく俺の言う通りにしろ、と力ずくで従わせようとはしない、文句のある者はとっとと出て行け、なんて言うこともない。
イエス
そしてこれがどうして罪人といっしょに食事をするのかということに対するイエスの答えだ。
当時のユダヤ教社会で、ユダヤ教の教え、つまり律法を守ることが社会の一員となる条件だった。律法を守らない者、守れない者は社会から除け者にされ罪人とされていた。罪人ということで差別され見下されていた。
イエスはそんな罪人とされている人達をそのままに受け止めたい、そのままを受け止めたい、そしてこの人達と一緒にいることが何よりも嬉しいのだ、そう言っているようだ。
イエスはこの父親と同じ様に徹底的に私たちを愛してくれている。間違いを責めることも問いつめることもしない。まるで何もなかったかのように大事に大事に受け止めている。それは全くダメ親父の姿のようだ。親父ならもっと毅然とした態度で接しないといけない、と世間からは言われるような、そんな徹底的に甘やかしたような対応だ。父親の面子なんてのはまるで関係ない、ただ大事な息子を大事にしているだけというような対応だ。
イエス・キリストの神はそんな風に私たちを思っている、待っているということなのだろう。とにかく抱きしめたくて待ち続けている、そんな思いで私たちを見つめているということなのだろう。
そのままを
いろんなことに打ちのめされてぼろぼろになっている私たちを、思いもよらないような辛い出来事に疲れ果て落ち込んでいる私たちを、神様はそのまま包み込んでくれるのだ。世間的にはどんなにだらし無くても、どんなに悪い人間だと言われていても、そしてまた自分自身でも、駄目で愚図でどうしようもない人間で、生きている価値もない、と思っていたとしても、神さまは私たちそのままを抱きしめてくれるのだ。
そしてこれが聖書の伝える神の愛なのだと思う。今日の父親の有り様はイエスが私たちに伝えてくれた神の姿なのだ。そうやって愛されることで、全てを受け止めてもらうことで初めて人は変わっていくことが出来るのだろう。神は、命令したりこらしめたり脅かしたりして外側から力で人を動かすのではなく、しっかりと抱きしめて、安心させ、心の中から人を変え動かそうとしているようだ。
誰かが、それはまるで母親のような姿だと言っていた。何があっても受け止め抱きしめる母親のような神、それが私たちの神の姿なのだろう。
僕は自分を否定するくせがある。こんな自分では駄目なのだ、こんな自分は誰からも認められないという思いが強い。そんなお前は駄目だ、お前のここは駄目だと言われそうでいつもびくびくしている。
でもそんな自分をそのままに認めてくれる、そのままを受け止めてくれる方がいる、ということは本当に嬉しいことだ。心の底からじわっと喜びがにじみ出てくるような気がする。きっとそこから生きていく力が生まれてくるんだろうと思う。
教会というのはそんな疲れ果ててぼろぼろになって神の下に帰ってきた者の集まりなのだ。ぼろぼろになって神に抱きしめられている者の集まりなのだ。
公園で遊ぶ小さな子供のようなものだ。転んだりさみしくなったり不安になったりすると親の元に帰ってくる。そして親に抱かれて安心するとまた遊びに行く。私たちはそんな子供の姿に似ていると思う。神はその親のようにいつも私たちを見守っている。
帰ってこい、いつでも帰ってこい、そのままで帰ってこい、いつでも待っている、神は私たちにもそう言われているようだ。