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礼拝メッセージより
「生かされて生きる」 2015年2月15日
聖書:ルカによる福音書12章13-21節
財産
このごろよくラジオを聞いていますが、そのCMによく出てくるのが法律事務所のCMです。過払い金を取り戻せるというものが多いのですが、時々相続問題は○○事務所、というCMもあります。
相続問題は家族の中に亀裂を生むような大きな問題となることがあるようです。財産はできるだけいっぱい欲しいと思い、いっぱいあればそれだけ幸せなのではないかと想像しますが、もちろん幸せになることもあるでしょうが、人を引き裂くこともあるようで、財産とはそんな危険をもはらんでいるようです。
遺産
今日の聖書の箇所には、ある人がイエスの所に遺産相続の問題をもちかけてきたとあります。遺産相続の問題はいつの時代でも深刻な問題を引き起こす危険があります。時には肉親の争いにもなります。今まで仲の良かった兄弟が、遺産を巡って突然憎み合うようになるということも聞きます。
ここでイエスの所に来た人は、親からの遺産を不当に配分されたのでしょう。ユダヤの社会において、このような場合、大体は律法学者の所に調停を求めに行ったそうです。
旧約聖書の申命記21章15節以下に長子権に関する事の中で財産について書かれています。
21:15 ある人に二人の妻があり、一方は愛され、他方は疎んじられた。愛された妻も疎んじられた妻も彼の子を産み、疎んじられた妻の子が長子であるならば、
21:16 その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。
21:17 疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである。
これを見ると長子は全財産の3分の2、他の子供達が3分の1となっているようです。律法にはそう決められているようです。しかし今日の聖書の中の人がイエスに助けを求めているということは、他の兄弟が自分の分を正当に分けてくれなかったということなのでしょう。
そういうことであれば律法学者に相談すれば済む話しだと思いますが、どうしてイエスに対して、兄弟にちゃんと分けるように言ってくれ、なんて言ったんでしょうか。
律法学者が自分の思い通りにしてくれなかったのでしょうか。あるいは律法学者の言うことを兄弟が聞かなかったので、毛色の違うイエスに頼んでみようと思ったのでしょうか。
ところがイエスは、私は裁判官でも調停人でもないと言って彼の要求をきっぱりと断ります。そしてイエスは一同に向かって「貪欲に注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」といいます。相続問題の相談に来たのに、いつの間にか命の話しになってしまっているなあという気がします。
いのち
でも確かに私たちは生きるために財産が欲しいわけです。長く安心して生きるためには財産が多く欲しい、多ければ多いほどいい、何とかして多くしたい、と思うわけです。明日死ぬと分かれば財産を増やそうなんて思いません。
しかし私たちはいつ死ぬのか、いつまで生きるのか、全く分かりません。分かれっていれば無駄に必要以上にお金を貯めようなんて思わないんじゃないでしょうか。
しかし私たちには自分の命があとどれほどなのか分かりません。残りの人生を心配なく過ごすことができるのだろうかという不安の裏返しが、財産を求める、財産に執着する生き方となってしまうのではないかと思います。この人も今後安心して生きるために財産が欲しかったのでしょう。この人の兄弟もきっとそうでしょう。
これもラジオで聞いた話しですが、確かフィンランドだったと思いますが、フィンランドの人は自分が幸福だと思うという人の割合がすごく多いと言っていました。それに対して日本人は幸福だと思う人はとても少ないそうです。日本人の方が財産はいっぱい持っているのにです。フィンランドでは税金が高くて日本人に比べると財産は少ないけれど多くの人が幸福だと感じているそうです。そしてその理由は将来に対する心配がないからだと言っていました。税金は高いけれども、社会保障の制度が整っていて、老後の心配がないことが幸福度の高さに繋がっているのだろうということでした。
将来どうなるかという不安をかかえていて、助けてくれるという当てもないとなると、やっぱり頼れるのはお金ということになってしまうのではないかと思います。お金さえあればひとまず安心できます。だからこそ自分の貰える分の財産を貰えないことに腹が立つわけです。社会保障が整っているならば、財産を分けてもらえなくても贅沢ができなかったという程度のことでしょう。しかし何の保障もなければ、それは命に関わることにもなりかねません。
イエスが命の話しを持ち出してきたのもそういうことからなのかもしれません。
たとえ
イエスはある金持ちの譬えを話します。
この金持ちが豊作になって倉を大きくして財産が増えた。そして自分に向かって、これから先何年も生きていける、さあ楽しめ、と言ったという話しです。
しかし神は、愚か者よ、今夜お前の命は取り上げられる、その財産は一体だれのものになるのか、と問い掛けます。いくら財産をためこんでもその財産によって命が保障されているのでない、ということです。財産によって生かされているのではないわけです。いくら財産があっても死から逃れることはできないわけです。
しかし財産を持ってもそれで命が保障されるとは誰も思ってないでしょうし、命というのは自分の力の及ばないもの、つまり神によって与えられたり保たれたり取られたりするものであることを大体誰もが思っているんじゃないでしょうか。
ではこの譬えではどうしてこの人を愚か者と言っているんでしょう。そのまま読むと、自分の命を自分でどうにかできると思っていることに対して愚か者と言っているのではなくて、自分の物だと思って喜んだのに、命を取られて他の人のものになったことに対して愚か者と言っているような気がします。今日死んだら全部他の人のものになるのに、そんなものために必死になるなんて馬鹿なやつだなあ、と言ったところでしょうか。
富む
最後にイエスは、自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ、と言います。
神の前に豊かになるとはどういうことでしょうか。今日の聖書の箇所に続く22節からのところに思い悩むな、必要なものは神がご存知なのだ、という言葉があります。33節には、自分の持ち物を売り払って施しなさい、天に富を積みなさい、という言葉があります。
施す、ということは言わば貪欲とは全く逆のことでしょう。貪欲に自分の財産を増やそうとすることは人のものをも自分の物にしてしまうことにつながります。自分の財産を増やすためには人のことなど心配してはいられません。
しかしイエスはそういう貪欲に注意しなさい、と言われます。そんな自分だけが良ければいいというか、自分の財産も命も自分が自分の力で守る、自分ひとりでどうにかできる、自分だけでどうにかする、そんな風に自分のことしか考えない、それが貪欲な愚かな生き方だ、そんなことにならないようにと言われているのだろうと思います。
神の前に富むとは、自分の命も財産も自分の力で守っていくんだと自分のことばかり考えるのではなく、周りの人と共に分かち合い、また神に生かされて生きる、そういうことなんだろうと思います。
生きる
より良い生活をするために財産を増やそうと誰もが一生懸命に働いています。ところがそうして財産を増やそうとするほど、財産に、お金に執着するほどに人間は貪欲になり、愚かになるということでしょうか。
私たちにとって財産をためることが生きる目的ではない、大金持になることが私たちの生きる目標ではない、とイエスは言います。
自分一人の力で生きているわけではないのに、自分の力だけで生きているように思うところに間違いがあるように思います。
人間は一人で生きてはいけません。神との関係、人間との関係、その関係を正常に保つことでこそよりよく生きていけるのだと思います。そこでは自分一人だけがいい思いをする、なんてことにはなり得ないでしょう。
実は人間にとっての最高の喜びは、自分がどれほど多くの物を持っているかではなく、自分が隣人を喜ばすことができること、自分が隣人の役に立つこと、だと思います。そしてそんな生き方をしなさいとイエスも言っているようです。
生かされて
人は不安を解消しようとしてお金やいろんなものを持とうとするのではないかと思います。これなら頼れるのではないかと思えるものを求めて苦労していると思います。お金に執着するということはその不安の大きさの裏返しではないでしょうか。
でもどんなに財産を持っても、どんなに大金持になっても、その不安を解消することはできないようです。財産は自分のものになったかのように見えても、いつまでも自分のものではないし、死ぬ時には手放さないといけないものであり、結局は自分を守ってくれるものでもありません。
いざとなったとき本当に頼れるもの、それは結局は神でしかないように思います。
心配するな、お前の命は神が支えている、神は命だけじゃなくお前に必要な物をみんな与えてくれる、だからこの神を信じなさい、思い悩むことはない、神がお前のことを心配しているんだ、だからお前はこの神と共に生きなさい、そしてお前の周りの人と一緒に生きなさい、そう言われているように思います。
私たちは神に生かされて生きています。そのことを忘れないでいたいと思います。