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礼拝メッセージより
「青い鳥」 2015年2月8日
聖書:ルカによる福音書10章25-37節
よきサマリアびと
詳細は忘れてしまったけれど、昔読んだ本の中によきサマリアびとに関係する話があった。
それは、ある人が困ったことになった時にたまたま通りかかった人が助けてくれた。助けられた人が、あなたのお名前は?と聞いたところ、その人は聖書に出てくるよきサマリア人の名前はなんだか分かりますかと聞き返した。分かりませんと答えると、では私も名前を言うのをよしましょうと言って去って行ったという話しだ。
ちょっとかっこいい話しだなあ、僕も名前を聞かれるようなことがあったとして同じように答えたらかっこいいな、なんて思いつつ、そういえばよきサマリア人の名前は何だっけ、と思ったけど分からなかった。
だいぶ後になって聖書をよく見ると、サマリア人の名前なんて覚えてるわけがないというか、イエスはサマリア人としか言っていないので名前は出てこない。これじゃあ誰も分からんわな。
えいえんのいのち
このよきサマリア人の話しの内容はすぐ覚たけれど、イエスがどういう状況でその話しをしたのかということを意識したことはなかった。
この話しの発端は、律法の専門家がイエスに「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問をしたことだった。
それに対してイエスは逆に律法の専門家に聞き返す。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」
律法の専門家は旧約聖書の申命記6章5節のところを引用して答える。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」ここはユダヤ人たちが一日に2回唱える「シェマの祈り」という祈りがあってその中にも入っているそうだ。それに続けてレビ記19章18節、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と答えた。敬虔なユダヤ人たちにとっては、神と隣人が愛されるところにおいて律法は満たされると考えられており、そのことを誰もが知っていたそうだ。
そしてイエスも「正しい答えだ」と答えた。しかしイエスはそれだけでは終わらず、続けて「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と語った。
律法の専門家はどんな気持ちでこの質問をしたのだろうか。この福音書では25節で「イエスを試そうとして」と書かれているけれどどうなんだろう。これはこの話しを伝えた人か、あるいは福音書をまとめたルカか、どちらかの注釈だ。29節にも「自分を正当化しようとして」と出てくる。悪意を持って質問したと解釈しているようだ。確かに律法の専門家がそういう気持ちで聞いたのかもしれないけれど、実際にはこの人の気持ちは本当は誰にもわからないはずだ。この律法の専門家とイエスの二人の会話だけを抜き出すと試そうとしたかどうか分からない。むしろ試そうとしてではなく本当に心から聞きたかったんじゃないか、という気がしている。
律法の専門家は律法に何が書いてあるかと言うことはよく知っていたけれど、でも何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるのかということは分かっていなかったんじゃないか。律法を知っていることと永遠の命を受け継ぐこととは繋がっていなかった、永遠の命を受け継ぐには律法とは別の何かをしないといけない、でもそれが何なのかが分からなかったんじゃないかと思った。だから、何をしたら受け継ぐことができるのか、と聞いたんじゃないかな。
なのにイエスから逆に律法にどう書いてあるか、どう読んでいるかなんてことを言われてしまった。神を愛し隣人を愛することだ、と答えたけれど、そんなことは誰でも知っているでしょう、律法のことではなくて何をすればいいのかを教えて欲しいと思ってたんじゃないかと思う。ところがイエスは、その通りだ、それを実行しなさい、と言った。律法の専門家にとって予想外の答えだったんじゃないか、聞きたいのはそんなわかりきっていることじゃないというような気持ちだったんじゃないか。思いもしなかった、耳にたこができてるような律法をつきつけられたことで、思わずじゃあ隣人とは誰ですか、と聞き直したんじゃないか。隣人を愛することが大事だということはずっと前から知っていたけれど、それを実行しろと改めて言われたことで、そういえば隣人って誰なんだろうと初めて疑問に思ったんじゃないかな。先週からそんな気がしてきている。
よいサマリアじん
そこでイエスが語ったのが「よきサマリアびと」の話しだった。このたとえ話は単純明快だ。
エルサレムからエリコへ降っていく途中に追いはぎにあい半殺しにされた人を、祭司やレビ人は知らん顔をして通ったが、サマリア人は助けた、という話しだ。
さいしとレビびと
エルサレムからエリコまでは約27kmで5、6時間かかるそうだ。この道は悪名高い道で、誰かが強盗に襲われることがしばしばあったらしい。
エリコは祭司の町だった。祭司はエルサレム神殿でささげものをするという務めを終えて帰宅する途中だったのだろう。レビ人も同じように神殿での務めを終えての帰り道ということだろう。
祭司もレビ人もユダヤ教社会では尊敬され尊重される人たちだった。しかし彼らは半殺しの目にあっている者を遠巻きに見て通り過ぎてしまう。
なぜ彼らは傷ついている人に関わらなかったのか。理由は語られていない。祭司やレビ人は神殿に関わる仕事をしていたので特別に清くしていないといけなかった。死体に触れると汚れるので、死にかけている人に関わって死んでしまったら汚れてしまう、だから関わらない方が安全だ、と考えたのかもしれない。汚れてしまうと自分の仕事にも支障が出てしまう、神に仕えるという大事な仕事に支障がでてはいけないので避けたということかもしれない。面倒なことに関わるのを嫌がった、ただ自分がやらなくても誰かがやるさということだけじゃなくて、それなりの理由を見つけることはできるようだ。
サマリアじん
そこへサマリア人が通りかかり、彼は半殺しの目に遭っているその人を助けて介抱し、宿屋までも連れて行った。それがイエスの語ったたとえであった。
サマリア人のことをユダヤ人は見下していた。かつては同じ民族であったが、イスラエルが北と南に別れた後に、サマリアのある北の国をアッシリアという国が占領し、アッシリアは東の方の民族を移住させてしまった。その結果、民は混血となり、宗教も東の宗教とイスラエル古来の信仰とが混じってしまった。そのために南の国のユダヤ人たちはそんなことからサマリア人を軽蔑し、サマリア人の信仰を異端として見下していたようだ。
そんなサマリア人が、つまり自分が見下していた側の人間が助けたという話しだ。ユダヤ民族の代表でもあるような祭司やレビ人は見捨てたけれど、軽蔑されていたサマリア人が助けたという話しだ。
しなさい
イエスは律法の専門家に、このたとえ話の中で隣人になったのは誰かと聞き、律法の専門家がその人を助けた人だと答えると、あなたも同じようにしなさいと言った。
たとえ話の前の質問に律法の専門家が答えたときにも、それを実行しなさいと言い、たとえ話の後の質問に答えた時にも、同じようにしなさいと言った訳だ。念押しをしたみたいだ。
青い鳥
律法の専門家は律法のことはきっとよく知っていた。この時にも正しい答をしている。イエスは、永遠の命を受け継ぐための答えをあなたはすでに知っている、答をすでに持っている、と言ってるような気がする。青い鳥の話しに似ている気がしている。しあわせの青い鳥を探しに行ったけれど結局自分の近くに居たという話しに似ていると思う。
律法の専門家は律法の字面はよく知っていた、けれどその意味というか力は知らなかった、そこに答えがあるということに気付いていなかったということではないかと思う。
この前の教育研修会で講師が、主の祈りの話しをしていた。主の祈りは私だけの祈りではなく、私たちの祈りだと気付いた。私の嫌いな人達を含めて私たちの祈りだと気付いてから簡単には祈れなくなった、と言っていた。
教会に長くいると、主の祈りもそうだし、聖書の言葉もイエスの言葉も、それはよく知っている、よく分かっていると思うことが多くなる。でもその言葉の力というかすごさというか、そんなものをしっかりと味わっているか、感じているかと問われているような気がしている。
聖書は、全部読んで覚えないといけない教科書ではない。そこには私たちを生かす、私たち支える力のある言葉がある。その力に気付いて欲しいとイエスは言われているんじゃなかろうか。
私たちがもうすでに聞いているイエスの言葉に私たちを生かす力、支える力があるのだ。だからその言葉をしっかりとじっくりと聞いて欲しい、イエスはそう言われているんじゃないかと思う。
そうだったのか、そうだったんだ、とイエスの言葉に生かされ、励まされたい、そしてそのことを一緒に喜びたいと思う。