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礼拝メッセージより
「安心して」 2015年2月1日
聖書:ルカによる福音書7章36-50節
ファリサイ派
ファリサイ派は新約聖書ではほとんどイエスの敵のような存在だ。ファリサイ派や律法学者たちがイエスを殺そうと計画を立てたことが聖書には書かれている。そんなファリサイ派のひとりシモンがイエスを食事に招いた。
何のためにイエスを食事に招いたのだろうか。シモンは他のファリサイ派の者たちとは少し違っていたのだろうか。みんなが敵対視している中でイエスを招いたとすると周りの意見に流されないしっかりした考えを持った人物であるということかもしれない。39節にあるようにイエスのことを預言者かもしれないという気持ちを持っていたのであろう。もちろんその確信があったというわけではないだろうが、彼はイエスを食事に招いて果たして本当に預言者なのか、メシアなのか、自分で確かめたいという願いがあったのだろう。
罪の女
ちょうど、その食事の場にそのシモンの家に一人の女がやってきた。37節ではこの人は罪深い女だと書かれている。口語訳では「罪の女」となっている。単なる比較的罪の多い女ということではなく、この言葉は娼婦を意味する言葉だそうだ。まわりからは蔑視され、自分でもそんな自分をダメな人間だと思っていたのではないかと思う。
彼女はこの時は脇き目も振らずイエスのところへまっしぐらという感じがする。そして回りの者が自分の行動をどう見るかなんてことに、気をまわす余裕さえもないかのような振る舞いをする。
彼女は「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(38節)
シモン
突然の出来事にシモンはびっくりしただろう。シモンはこの女をすぐに追い出すこともできただろう。しかし彼はそんなことはしなかった。シモンはイエスが預言者なら女が売春婦であるとわかるはずだと考えたと書かれている。この女の素性が見抜けるならばあるいは本当に預言者かもしれない、さあ、見抜けるか、見抜けないか、そんな気持ちでこの状況を見ていたのだろう。
イエス
イエスはびっくりしなかったんだろうか。イエスは多分当時の習慣に従って寝そべって食事をしていたであろう。そんな時後ろからこの女は近づきイエスの足に触れてきたのだ。慌てて足をひっこめることもできたであろう。やめなさい、と言って制止することもできたはずだ。しかしイエスは何も言わず女のするままにさせている。
それはシモンにとって、罪深い女に触れられるまま、そのままにさせるなんてことはとても考えられないようなことだっただろうと思う。
髪
この女性は足を涙でぬらし髪の毛でぬぐった。この髪と涙についてこんなことが書かれた本があった。
『いったいこの女性は何をしたんでしょう?現代のふつうの感性には、フェミニズム神学者でさえ感じ取れなくなっている彼女の内面を、鋭く感じ取って共感した女性たちについてのレポートがあるんですよ。遠藤雅己氏(在マニラ聖公会宣教師)が、マニラのミッドナイト・ミッションでの話しを書き伝えたものなんですね。
風俗産業で働く若い女性たちを中心にした真夜中の聖研でこの箇所を取り上げたとき、いつも黙っている二人の女性が、堰を切ったように語りはじめたというんですね。私たちにはこの女の人のしたことがわかる、体を売らねばならない自分たちの仲間でも、髪の毛だけは大切にして、客からどんなに要求されても髪で客の体を拭くようなことはしない、まして足なんか・・・・。髪は金銭のためじゃなく、女性としての誠実な思いから、客じゃない相手との特別な関係のためにとっておくんだ、と。自分の肉体を売るほか家族を支えるすべを奪われた娘さんたちが、愛する人に人間としての誠実を示す最後の宝として大切にしているのが「髪」だというんですね。
それから、涙についてもこう語ったそうです。家族のためやむを得ず体を売っているのだけれど、自分のしていることは家族に内緒にしなければならない、よりよい将来のためにと思ってやっているのだけれど見通しは暗い、信仰が唯一の慰めだけれど、その信仰は自分のしていることを「罪」として責める。そういう矛盾を背負いこんだ自分たちを、まるごと受け入れてくれる相手に出会った喜びと愛の涙なんだ、と。』(渡辺英俊『片隅が天である』新教出版社)
今日の聖書の女性も、家族を養うため仕方なく売春婦をしていたのかもしれないと思う。社会からは白い目で見られ、そして自分でも後ろめたい気持ちを持っていた、、そんな苦しい思いをずっとかかえていたのだろう。その気持ちを誰かに受け止めて欲しいという思いがこのイエスに対する振る舞いとなったのだろう。
さばき
シモンはこの女性を「罪の女」としてしか見ていなかったのだろう。しかも自分には罪がないかのような気持ちで。神の側に立ってこの女を見ていたのだろう。
私たちもそんな見方をしがちだ。なんでそんなことをしているのか、どうしてやめられないのか、なんていう目で見てしまう。罪を犯すのはやめなさい、なんてもっともらしいことを言ったりする。
しかしイエスはそんなことはしなかった。イエスは彼女の罪を責めるようなことは何も言っていない。彼女をそのまま受け止める。きっとイエスは人間の側に立っているのだ。矛盾を抱えてやっとの思いで生きている、その矛盾をどう克服すればいいのかも分からない、いろんな不条理に立ち向かう力も元気もない、そんな人間の側に立っている。罪を抱えて苦闘して生きている、そんな人間のすぐ側にいるのだろう。
感謝
この女性の振る舞いは彼女のそれまでの失望の裏返しなのだろう。誰も分かってくれない、誰も理解してくれない、誰も自分のことを受け止めてくれない、誰もが自分を罪ある女という目で見る、そんなひとりぼっちで苦しみを抱え込んで疲れ果ててしまったんだろうと思う。
しかし初めて自分をそのままに受け止めてくれるかもしれない人に出会った、そこで今まで押さえていた思いが一気に溢れだした、そんな振る舞いだったんじゃないかと思う。
あるいはこれは賭けでもあったのかもしれない。イエスなら受け止めてくれるかもしれない、もちろん確証はない、確証はないけれど自分の辛い思いをこれ以上一人だけで抱え続けることはできない、そんな状況だったんじゃないか。そしてイエスに賭けた、そしてその賭けに勝ったということじゃないかという気がしてきた。
受け止めてくれるという確証も保障もない、けれどもぶつかっていき、それをそのままに受け止めて貰えたということなんじゃないかと思う。
ゆるし
「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」とイエスは言ったがどういうことなんだろう。この女性のしたことは大きな愛の行為だったんだろうか。泣きながら足を涙でぬらして自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻して香油を塗るなんてことは普通はしないだろう。それは最高のおもてなしをしようとして冷静に判断してしたことじゃなくて、自分のいろんな思いが溢れだした突拍子もない異常な行為だったんじゃないかと思う。でもイエスはそんな行為を大きな愛の行為だと宣言したんじゃないかと思う。
「あなたの罪は赦された」というのもどういうことなんだろうか。どうして罪は赦されたという話しになるんだろうか。確かに世間からは罪深い女として見られていたの、罪深い女としてのレッテルを貼られていたのだろう。そのレッテルをイエスが「そうじゃない」と剥がしたような気がしている。それはこの女性を罪深い女だという目でしか見ない周りの者たちに対する挑戦のようにも聞こえる。
そして「あなたの信仰があなたを救った」とはどういうことなんだろうか。彼女に信仰はあったのだろうか。信仰があったからこんなことをしたのだろうか。イエスがキリストである、救い主であるなんてことを信じる人なんてこの時は誰もいなかっただろうと思う。きっと彼女もそうは思ってなかったんじゃないかと思う。所謂信仰とかいうようなものではなく、聖書教育にも書いてあったように、説明し切れない思いであり、それを抱えて全身でイエスにぶつかっていったんだろうと思う。しかしそれをイエスは信仰だ、と言ってくれたんじゃないかと思う。もうどうしようもない、助けてくれとイエスのもとへ倒れ込む、それを信仰だと言ってくれたんだろうと思う。そこでイエスに受け止められた、自分の思いもなにもかも全部受け止めてもらった、それが救いなんだろう。
安心して
すべてを受け止めてもらうことで彼女はそこから新たな一歩を踏み出す力が与えられたことと思う。少しの希望と少しの元気が出てきたことだろう。
お前は駄目だ、そんなことでは駄目だ、この女性を苦しまた声が私たちにも襲いかかっている。そして自分でも自分を駄目だと思う。
しかしそんな私たちにイエスは「お前は駄目じゃない、大丈夫だ、私はあなたのことは全部分かっている、あなたの苦しみも悲しみも辛さも全部分かっている、私がついている、私はあなたの味方だ、だから安心して行きなさい」と私たちの心の真ん中から叫んでいるように思う。そんなイエスを心に受け入れること、そんなイエスの声を聞いていくこと、それがまた救いなんだろうと思う。