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礼拝メッセージより
「幸いだって?」 2015年1月25日
聖書:ルカによる福音書6章17-26節
しあわせ
幸せってなんなんでしょう。何がどうなれば幸せなのか、よくよく考えるとよくわからない。お金や財産がいっぱいもつことが幸せと思ったり、あるいは自分も家族も健康であることこそが幸せと思ったりする。けれどもお金がどれほどあれば幸せなのか、なんていう基準があるわけでもなく、何がどうあれば幸せなのかという決まったものはない。同じものを持っていても、幸せと思う人と思わない人がいる、同じような境遇でも幸せと思う人と思わない人がいる、結局は自分が幸せと思うかどうかなんじゃないかと思う。
そんなこと考えていたら同じようなことを言っている人がいた。「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」これは相田みつをさんの言葉だけれど、自分が幸せだと思う人が幸せで、不幸だと思う人が不幸だというように、幸せかどうかは自分が決めているんだと思う。
今日の聖書にはさいわいについてのイエスの言葉が出てくる。「・・・は幸いである」と訳されているけれど、原文では「さいわいだ」という語が文の一番初めに来ているそうだ。また「あなたがた」と言われているように、幸せとは何なのかというよう一般論を語っているのではなくて、イエスのもとに集まっている人達に向けて、あなたがたのことだと言われている言葉だ。
イエスは貧しい人々、飢えている人々、今泣いている人々が幸いである、と言う。ここでいう貧しい人という言葉は、乞食たちを指す言葉なんだそうだ。ただ比較的貧乏であるということではなく、乞食をしているような状態の人のことだそうだ。しかしなぜそんな状態がさいわいなのか、とても理解できないことのように思う。
私達は常に、「さいわい」、「幸せ」な状態を求める。親は子の幸せを願う。結婚したカップルには、「お幸せに」と言う。「幸せ」を求めるというのは、古今東西を問わず、すべての人間の求めるものであるらしい。
しかし何がどうあることが幸せなのかは、時代によって人によって異なる。私達は果たしてどのような幸せを求めているのか。
一般的には、いい学校を出て、いい会社に就職をして、有利な結婚をして、財産を得て、健康で長生きすることが幸せだと考えているのではないか。親が子どもに対して願うこともそのようなことが多いように思う。そのためには小さい時から習い事をして、ということになるのだろう。
幸い
聖書にも世間一般で言われているような、良い物を持つことが幸せであるというような言葉もないわけではない。しかし聖書では幸せの根本は何よりも神との関係において見られている。すなわち、聖書では、神との正しい関係にあるというのが、最も幸せということだ。
詩篇の中にも「さいわい」の言葉が多くある。そもそも詩篇は、この「さいわい」で始まっている。
「いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(1篇1-2節)
詩篇の記者はまず最初に、神の前に正しくあることが本当の幸せなのだ、と主張している。
今日のテキストに出て来る最初の三つの事柄は、いずれも、世間一般では決して幸せとは考えないものだ。貧しい人、飢えている人、泣いている人は、私達は普通不幸な人だと考える。そして、何とかしてそのような状態になりたくない、と思う。
しかし、イエスは、そのような貧しい人、飢えている人、泣いている人はさいわいだと言う。
マタイによる福音書では「こころの貧しい人たちはさいわいである」と「こころの」という言葉が付け加えられている。これについては、多くの学者は、ルカのテキストの方が元の形であっただろう、と言っている。すなわち、イエスの言われたのは、文字通り「貧しい人」だったというのだ。それをマタイは、「こころの」というのを付け加えて精神化したという。また、「いま飢えている人たち」もマタイの方では、「義に飢えかわいている人たち」と精神化しているし、「今泣いている人たち」も「悲しんでいる人たち」と抽象化されている。このようなことからもルカのテキストの方が元の形であったように思われる。
イエスに従ったガリラヤの人々は、多くは実際に貧しい人たちだったようだ。人々から重んじられず、それどころか相手にもされなかった。物質的に困るだけでなく、人々からも相手にされないという孤独感、精神的な淋しさも味わわなければならなかった。社会保障も何もない時代、貧しいということは将来に対する不安もいっぱい抱えて生きていた人達だったと思う。
彼らはそんな不幸な自分達をどうにか助けて欲しい、不幸から救い出して欲しいという気持ちでイエスにすがっていたんじゃないかと思う。
幸いだって?
ところがイエスは、あなたたちを不幸から救ってあげましょうとは言わなかった。そうではなく貧しくて、飢えていて、泣いている、あなたたちは幸いなのだと言っている。びっくりしてしまう。あんたは自分が不幸だ不幸だと言っているけれど、本当はあんたこそ幸いなんだよ、と言っているわけだ。
私たちは、あれもない、これもないと不幸の種を見つけては自分の不幸を嘆いてばかりいる。そして自分がいかに不幸かと嘆いては、どんどん元気をなくしている。しかしイエスはそんな私たちに向かっても、そんなことはない、お前は幸せなんだ、不幸だと嘆いているお前こそ幸せなんだ、と叫んでいるようだ。しかし、幸いだって?どこが幸いなんだ、何馬鹿なことを言ってるんだ、というのが正直な気持ちだ。神の国はあなたがたのものだなんて言うけれど、神の国はいったいどこにあるんだと思う。
誰かを心から愛すると力が出る。
誰かに心から愛されると勇気が出る。
(老子/中国の哲学者)
たまたま週報に載せたこの言葉を見て、心から愛されているから幸いなのかもしれないと思った。心から愛してくれる方がいる、お前は幸いなんだと叫び続けてくれる方がいる、そこが神の国なんじゃないかと思った。心から愛してくれる方がいるからこそ、私たちは貧しくても飢えていても泣いていても憎まれても汚名を着せられても幸いなんだろう。
心から愛することイエスは私たちに勇気も力も出させてくれる。私たちにとっては不幸としか思えないような苦しい状況の中で生きていく力を与えてくれる、そんな仕方でイエスは私たちを支えてくれているのだと思う。そうやって支えられているから、心から愛されているから、私たちも幸いなのだ。