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礼拝メッセージより
「引き付けられて」 2015年1月18日
聖書:ルカによる福音書5章1-11節
ゲネサレト湖
ゲネサレト湖はよくガリラヤ湖と言われる、イスラエルの死海の北にある湖。南北21km、東西13km位で米粒のような形をした湖。海抜はマイナス213mと書いてあった。
丁度呉と音戸と江田島の間の海を一回り大きくしたような湖のようだ。
今日の聖書はそのゲネサレト湖畔での出来事だ。
シモン
少し前の箇所で、イエスはかつてシモンの家でシモンのしゅうとめが高い熱を出していたのをいやしたことが書かれているので、当然イエスに会っていたと思われる(4:38)。後でペトロと呼ばれるようになるシモンは漁師をしていて、しゅうとめがいるということは結婚もしていた。
シモンはイエスのことをどう思ったのだろうか。群衆がイエスから神の言葉を聞こうとして押し寄せて来たとあるが、その時シモンは漁を終えて網を洗っていた。
押し寄せる群衆をよそに、シモンは仕事をしていたわけだ。ちょっと醒めた目でその光景を見ていたような感じがする。
しかしイエスが群衆に話しをするためにということで頼まれると、シモンは自分の船を船を漕ぎ出した。しかしイエスは話しが終わると、沖に漕ぎ出して網を降ろし漁をしなさい、なんてことを言いだした。
訳がない
シモンは夜通し漁をしたのに何も取れずに帰ってきて、網を洗っていた。魚が捕れていればまだしも、一所懸命に働いたのに魚が捕れないという何ともしんどい時だったと思う。一番気が乗らない、やる気が出ない状況だったのだろう。もうくたくたになっているところへ、もう一回やってみろ、なんて言われてもなかなかそうは出来ないものだ。
一体何を言ってるんだと思ったのではないか。しゅうとめを癒してもらったという恩人だとしても素人にそんなことは言われたくない、漁のことは俺の方がよく分かっている、と思ったのではないか。だからシモンは、夜通し漁をしたのに取れなかったと言った。今からやったって獲れるわけがないと言いたかったのだろう。
シモンは「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言った。どういう気持ちで言ったのだろうか。イエスの言うことならばと素直に従おうと思って言ったのだろうか。それともイエスの確信に満ちた言葉に圧倒されて、しんどいけどやってみようという気持ちになったのだろうか。そんな前向きな気持ちを持ってもういちど漁をしたのかと思ってきた。
けれど今回はそうじゃないような気がしている。しゅうとめを元気にしてもらった恩もあるし、無碍に断るわけにもいかない、どうせ何を獲れないけれど一度網を降ろせば満足するだろう、そうしたらもう偉そうに命令することもないだろう、というような気持ちだったんじゃないかと思った。だいぶ捻くれた想像かもしれないけれど。
恐れ
夜通しなにも獲れなかったのに、こんな時間に獲れるわけがないと思っていたのに、逆に大漁になったことでシモンはびっくりして訳がわからなくなってしまったんだろうと思う。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」なんて結構訳の分からないことを言っているのもそのせいだろう。
旧約聖書の時代からイスラエルでは神を見た者は死んでしまうという考えがあったらしいけれど、シモンはあまりの驚きでイエスの事を神のように近づきがたい存在、この世のものとは別の神聖な存在だと思ったんだろうと思う。文字通り恐れ多い方だということで、離れてくれ、自分を罰しないでくれと思ったんだろう。死ぬかもしれないと思ったかもしれない。シモンのこの言葉はそうとう狼狽していたから出て来た訳の分からない言葉なんじゃないかと思う。
恐れるな
しかしそれに対してイエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」なんてことを言う。これもちょっと訳の分からない言葉だ。人間をとる漁師って一体なんなのかと思う。シモンたちはこれを聞いてすべてを捨ててイエスに従ったと書いてある。彼らはイエスの言っていることが分かったのだろうか。多分それほど分かってはいなかったんじゃないかな。でも分からないけれど、自分達を引きつける魅力をイエスに感じてついていったんだろうと思う。
宣言
離れてくれ、近寄らないでくれ、と言ったシモンだった。シモンはイエスをとても近寄れない、自分とはまるで別世界の存在と感じたのだろう。かつて経験したことのない存在、そのために近づくと自分がどうなるかわからないという恐怖心さえ抱いてしまったのだろう。
ところがそのイエスからシモンは、あなたは人間をとる漁師になると言われた。なるだろうではなく、なると断定している。人を導く、神のもとへ連れ戻す、そんな人になるということだろうか。人間をとる漁師、という言い方はいかにもイエスらしい言い方だと思う。
偉大すぎてとても近寄れないと思った相手から招かれたということだ。
引き付けられて
シモン達はすべてを捨ててイエスに従った。それはイエスに引き付けられたからだろうと思う。シモンはしゅうとめを癒してもらったことが書かれているけれど、だからと言ってイエスに付いていったわけではなかった。しかし今日の出来事を通してイエスに従っていった。イエスの魅力に引力に引き付けられるようにしてついていったように思う。
イエスが何ものなのかも、その後自分がどうなるのかもあまりわからないままに付いていったのだろう。しかしそんな魅力がイエスにあったから、それに引き付けられて付いていったのだろう。
それはまるで私たちと同じだと思う。イエスがどういう方かもよくは分かっていない。イエスを信じればどうなるのかも定かではない。しかしイエスに引き付けられて私たちもイエスについていく、イエスの言葉を聞いていくのだ。