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礼拝メッセージより
「悪霊を吹き飛ばす」 2015年1月11日
聖書:ルカによる福音書4章31-41節
権威
イエスは自分の住んでいたナザレから、ガリラヤ湖畔のカフェルナウムに下って行った。ナザレはカフェルナウムから南西約40kmの山間の小さな村で、ガリラヤの平野を見下ろすことができるそうだ。カフェルナウムは海抜マイナス210mの低地だそうだ。「カフェルナウムに下って」と書かれているけれどまさに低地に降りていったらしい。
今日の箇所のすぐ前の4章16節以下のところでも、イエスがナザレの会堂で話しをしたことが書かれている。会堂というのは、シナゴーグと呼ばれるそうだけれどユダヤ教の礼拝をするところで、そこは学校でもあってユダヤ人は小さい頃から会堂で聖書を、今の旧約聖書を習っていたそうだ。そして安息日には会堂で律法(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を朗唱し、ラビと言われる先生が話しをし、その礼拝に参加している人達の証しなどもあったようだ。イエスはの日はカフェルナウムの会堂で話しをした。
イエスの教えを聞いた人々は、その言葉に権威があったので非常に驚いたというのだ。権威とは何なのだろうか。言葉に権威があったというのはどういうことなんだろうか。
イエスはいわば片田舎の大工だったと思われるけれど、イエス自身に権威が会ったわけではない。むしろ律法学者たちの方がよほど権威を持っていた。律法学者たちは昔からの言い伝えやその解釈に基づいて語ることが常であったそうだ。律法学者たちは、律法にはこう書いてあります、これはこういう意味だと伝えられています、偉い先生はこう解釈しています、というような言い方をしていたらしい。つまり彼らは正しい答え、正しいとされる答えを伝えていたらしい。今の礼拝のメッセージもこれに近いのかも?
それに対しイエスはもっと自由にというか、誰かの解釈とか誰かの言葉ではなく、自分がどう聞きどう感じているかというようなことを語っていたのではないか、それを自分の言葉で語っていたのではないかと思う。そしてのびのびと自由に語っていたのだろう。イエス自身がしがらみに縛られずにのびのびと生きていて、そのままに語っていたのだろう。
汚れた霊
そこに汚れた霊に取りつかれた男がいてイエスはその悪霊を追い出した、という話しだ。
汚れた霊とか悪霊とかいうものが存在するのだろうか。イエスが聖書に書いてある通り、文字通りに悪霊を追い出し病気を癒したのだろうか。悪霊を追い出すなどと聞くと悪魔払いでもしたかのようなイメージがあるけれどそういうことなんだろうか。
霊という言葉はギリシャ語では「プネウマ」という言葉だそうで、風とか息という意味もある言葉だそうだ。呼吸をする時には息を吸うわけで、その時に悪い息を吸うと病気になったり体調を崩したりすると考えられていたそうだ。そういう人間に悪さをする息というか風のようなもの、それが汚れた霊、悪霊と呼ばれるものらしい。病気になるのはそういう悪い息を吸ったためだと考えられていたそうだ。
逆に良い息、良い霊、聖霊を吸うと元気になるというわけだ。ある牧師が霊とはこの元気の気のようなものではないかと言っていた。良い霊、良い息を吸うと元気になり悪い霊、悪い息を吸うと病気になるというわけだ。
ということは悪い霊に取りつかれたと書かれていることは、今で言えば体調を崩しているとか精神が病んでいるということ言い方になるのだと思う。
あるいはこの人は精神を病んでいるというほどでもなくて、いろんなしがらみにがんじがらめにされていて苦しんでいる人だったのかもしれないと思う。家庭や社会の人間関係によって、嫁だからこうすべきだとか、男だからとか女だからとか、世の中にはいろんなしがらみがある。そんなしがらみを耐えていくなかで体調を崩したとしても、当時はそれは汚れた息を吸ったから、汚れた霊に取りつかれたからということになる。
そんな人がのびのびと自由に生きるイエスに向かって悪態をついた、どうせ俺は汚れた霊に取りつかれているんだ、どうせ俺は駄目なんだ、俺に構うな、どうせ俺は駄目なんだ、というようなことを言った、しかし黙れというイエスの言葉に圧倒されて静かになったということではないかと思う。
吹き飛ばす
その後イエスはシモン・ペトロのしゅうとめを癒し、日が暮れると人々は病人たちをイエスのもとに連れて来た
日が暮れると一日が終わり、新しい一日が始まる。労働をしてはいけない、決められていた以上に歩き回ってはいけないという安息日が終わり、自由に歩き回れる新しい日が始まった。そうすると安息日での会堂の出来事を見聞きしていた人達が病人たちを連れて来たのだろう。そしてイエスは悪霊を戒め、ものを言うことを許さなかったと書かれている。ここでは出て行ったと書かれていない。
いろんなしがらみの中で苦しみ、体調を崩し、病気と言うことで悪霊につかれていると言われ、苦しみ悲しんでいる者がそこに集められたのだろう。そしてその人々がイエスの触れ声を聞き癒された。
悪霊とか汚れた霊と聞くと、それは魔術師か霊媒師の話しか、あるいは遠い昔の自分とは関係のない時代の話しという気がする。けれどイエスに触れイエスの声を聞くことで元気をもらった、元気になったということであれば、それは今の私たちとは関係のない別世界の話しではなくなる。
イエスには、イエスの言葉には私たちを元気にする、私たちをしがらみから解放するそんな力がある。聖書の時代の言い方で言えば悪霊を追い出す力がある。悪い霊を、悪い息を吹き飛ばす力があるのだ。
私たちは悪霊に取りつかれているという言い方はしないけれど、私たちも自分を苦しめるいろいろなものに縛られ、いろいろな思いにがんじがらめにされているのではないか。あれはこうすべきだ、これはこうすべきだ、お前はできていない、お前は駄目だ、お前なんか誰も評価しない、そんな声が心の中に渦巻いている。そんな声にイエスは黙れと言われているのではないか。
イエスは見えないけれど、そんな私たちと共にいてくれている。そして聖書を通して、色んな人を通して語りかけてくれているのだろう。お前に会うために来た、苦しみ悩み、嘆き悲しんでいる、そのお前に会うために、お前に語りかけるために、そしてそんなお前の苦しみや悩みや嘆きや悲しみと聞くために来た、そんなものを全部ぶつけてくれ、お前のことを全部受け止めたいのだ、そしてお前が大切なんだという私の声を聞いてくれ、私がいつも一緒にいることを忘れないでほしい、イエスはそう言われているのではないか。
その声を聞くことでその息を吸うことで私たちは元気になる。私たちを元気にする力がイエスの言にはある。それはまさに悪霊を吹き飛ばす、悪い息を吹き飛ばイエスの息だ。そんなイエスの息に、イエスの霊に吹かれていこう。