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礼拝メッセージより
「イエスを見よ」 2015年1月4日
聖書:ルカによる福音書3章1-20節
ヨハネ
バプテスマのヨハネのことは4つの福音書すべてに書かれている。ルカは皇帝や総督や領主、そして大祭司の名を列記している。イエス誕生の時もそうであったが、それがいつの時代であったのかをはっきりさせ、またその出来事が歴史的に起こった出来事であると語っているようだ。
預言
3:4に「預言者イザヤの書に書いてあるとおりである」とある。旧約聖書のイザヤ書 にこう書かれている。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」(40:3-5)
主のために、救い主のために道を備えるものが現れることをイザヤが告げていた、そしてそれがバプテスマのヨハネである、とルカは告げている。
荒れ野
このイザヤ書はバビロン補囚の時代に書かれた。自分たちの国が他の国に占領され、指導者たちはその国に捕らわれていった、そんな時代に神が語った言葉が、この言葉だった。荒れ野とは文字通り荒れた地で、石がごろごろしているところ。その土地に神は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われる。道のない荒れ地に道を備えよ、と神は言われる。神が捕らえられている者たちをイスラエルに返す道を備える、もうすぐ解放される、自由にされる、もうすぐ帰れる、神がそう言っている。捕らわれているバビロンとイスラエルとの間が、実際にこの荒野だそうだ。そこに道を整えよ、と神は言われる。
でも実際には見通しが全く立たない苦しい状況だった、にもかかわらず神はその真っ暗闇の真ん中に道を備えようとされている。イザヤはそのことを伝えた。
それはまるで私たちに語りかける言葉でもある。私たちは見通しの立たない、しかも曲がりくねった道を歩いているようなものでもある。私たちの人生も、大きな石がごろごろして歩きにくく、太陽が容赦なく照りつける、日陰になる木もほとんどない、そんな荒野のようなものだ。
しかし、その人生の荒野に神は道を付けようとされる。そんな人生の荒野に神は来てくださる。その時がもうやってきたんだとルカは告げている。私たちを縛りつける全ての者から私たちを解放する時、その時が今やって来た、この約束がすでに起こったという喜びを語っている。主が来るという喜び、すでに救い主が私たちのところへ来ているということ、そしてヨハネはイザヤが約束していたその先駆けであったというわけだ。ヨハネは神が遣わされた使いであって、イエスの道筋を整えるものである、そしてついにキリストが来た、とルカは告げている。
悔い改め
ヨハネは群衆に「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と語った。なんだか恐ろしい話しで、まるで脅迫だなと言う感じがする。この言葉を真剣に聞くならば、そこにいた群衆のように、じゃあどうすればいいんだ、ということになるだろう。
それに対してヨハネはとても具体的なことを答えている。下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやりなさい、食べ物も同じようにしなさい、徴税人は規定以上のものを取り立てるな、兵士はだれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな、自分の給料で満足せよ、ということだった。
下着や食べ物を分けてやりなさいと言われることはわかるけれど、税金を規定以上にとるとか、ゆすりやだましをするなとか、すごく当たり前のことを言ってるような気がする。こんなことしていたら今だと捕まってしまうだろう。でもこう言わないといけないほど乱れていたということだったのだろう。徴税人や兵士というのはそれだけ権力を持っているわけで、権力を持ってしまうと人は自分の欲望に支配されてしまうらしい。
ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結べと語った。そうすると持っていない者に分け与え、自らの不正をただすことが悔い改めにふさわしい実を結ぶということになりそうだ。
悔い改めなんていうと自分の本質を改めることのように思うけれど、本来は向きを変えることだそうだ。人間の性質、性格を変えてしまうことではない。結果的にそうなるかもしれないが、大事なのは、向きを変え神の方を向くということ。自分の本来進むべき方向へ向かっていく、そっちの方向に向きを変えるということ、それが悔い改めだ。
私たちの人生は、本来進むべき方向とは全く違う方向に向かって一生懸命に進んでいるようなものかもしれない。そもそも目的地も分からず、兎に角一所懸命に走っているような状態かもしれないと思う。目的地にむかうのが目的ではなくて、一所懸命に走ることが目的になっている、なんてことになってしまっているのが私たちの現状なのかもしれない。
そんな私たちが神の方に向き直ること、それが悔い改めだ。悔い改めとは、私が悪うございました、といじけることでもないし、これからは決して罪は犯しませんと言って、罪のないきれいな人間になると宣言することでもない。罪も持ったまま、駄目なものも抱えたまま、今の自分のまま、神の方に向きを変える、神の方向を見つめる、それが悔い改めだ。
神の方向へ向くためにも、神の言葉を聞いていかねばならない。どっちを向けばいいのかを聞いていかねばならない。
ナビみたいだなと思う。最近ではほとんどの車にナビがついているらしい。スマホにもついている。複数の人工衛星の電波を捕らえて、自分がどこにいるのかを知ることができる。今自分がどの町のどこの交差点にいるのかがわかる。そこに目的地を入れると、次の交差点を左に曲がってください、なんてことまで言ってくれる。
聖書というのは、そんなナビゲーションみたいなものかもしれないと思う。その電波をキャッチしていないと、自分がどこにいるのかだんだんわからなくなってしまう。いつもキャッチしていると、いつもどこにいるのか分かる、私たちの向かって行くべき方向も分かる。もちろんそれで渋滞がなくなるわけではない。どうしても渋滞の中を通らないと行けないときもある。いかにも回り道のようなところを通ることもあるだろう。しかし自分がいる場所、進む方向も分かっていれば安心だ。
知らない町で自分がどこにいるのか分からない時、どっちへ向かっていいのかも分からなくなる時、目的地に着けるだろうかと不安になる。
昔バイクで日立から日光へ言った帰り道に、もう暗くなっていたけれど地図を見て近道らしい田舎道を通ったことがあった。そして二股の分かれ道にさしかかって標識があって来た。標識には行き先が書いてあったけれど、田舎の標識なのでどちらも知らない地名だった。もちろんナビもなくて地図見ても自分がどこにいるのかも定かでなくて、方角的にはこっちかなと思ってそちら側に行った。ところがしばらくするとまた分かれ道にやってきた。また同じように標識には知らない地名が書いてあって、しばらくしたらその前に迷った分かれ道に戻っていたことが分かった。今度は違う方へ行ってどうにか帰ってきた。このまま彷徨ってしまったらどうしようと思った。
道に迷うような時にはナビがあればいい、そして人生に迷う時には聖書があればいい、神の言葉があればいいと思う。神の声を聞き悔い改めて、つまり神の方を向いて生きなさい、ヨハネはそう告げている。
そしてヨハネは自分のあとに来る者こそが救い主である、見るべき者はこの方だ、自分よりも力のある方があとから来る、と言った。その方を見なさい、その方に聞きなさい、従いなさい、ヨハネはそう告げている。
自分の人生は進むべき道を見失い不安になってばかりだ。将来が見えなくて心配ばかりだ。不安と心配に押しつぶされそうになっている。だからこそイエスをしっかりと見ていきたい、イエスに聞いていきたいと思う。
人工衛星からの電波は四六時中いつでも地上に送られている。イエスもいつも四六時中私たちと共にいる。私たちが向き直ればいつも私たちを見つめてくれているのだ。いつも導いてくれているのだ。