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礼拝メッセージより
「希望」 2014年12月28日
聖書:ルカによる福音書2章22-38節
献児
すぐ前の21節でイエスに割礼を施したことが出てくる。割礼とはユダヤの律法によれば、男の子は生後八日目に割礼を受けねばならない。その子はこの儀式によって、神と契約を結んだ民の一人となる。そして「幼な子はイエスと名付けられた」。割礼を受けるときに父が子に名前をつける習慣があり、親族一同にとってもそれは大きな祝いの時だった。原文では「イエスと呼ばれた」。
そして両親はきよめの期間を過ぎた時にエルサレムに連れていった。レビ記12章によれば、男の子を出産した場合40日、女の子の場合は80日がけがれる。この期間がすぎたあと、エルサレムで母親は一歳の小羊とはとを持って祭司の所へ行くことになっていた。ヨセフとマリアは貧しかったのか、はとだけをささげた。
マリアはそのきよめのためと、幼な子をささげるためにエルサレムにやってきた。幼な子をささげるというのは、出エジプトの時に、初めての男の子を神のささげたことから始まったとされている。ささげものは本来ならば殺されるはずだが、それに代わって鳩を献げ、幼児はそれによって聖別され神に所属するとされた。そしてその子を再び神から受け取る、預かるということのようだ。
シメオン
その時エルサレムにシメオンという老人がいた。シメオンというのは「聞き入れられた」という意味だそうだ。新約聖書では「シモン」と言われることが多い。このおじいさんは救い主が来ることを待ち望んでいた。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいた。信仰があつい人とは神の戒めと定めとを守っていた、ということだろう。
もちろん当時の人はだれでも律法を守っていただろう。でも律法を守っていても、期待をもって、喜んで守っている人は多くはなかったらしい。当時多くの人が律法に対して、ただ過ちを犯すことを恐れていた。何をするのにもこれをしてもいいか、大丈夫かとびくびくして心配になっていた。でもシメオンは神に従うことを喜び、希望を持って生きていたようだ。
シメオンの時代の人たちの多くは形だけは一所懸命に律法を守っている人が大勢いたようだ。神はどうあれ、神との関係はどうあれ、律法に書かれている通りにしておけばいいのだ、ということで守っているような人が多かったようだ。そして後々イエスが怒ったのもそんな見ばえだけはいいが中身のない、ただ律法を守るという形だけにこだわって、そのことを威張り、守れないものを疎外し差別していた人たちだった。
しかしシメオンは喜んで律法を守っていたようだ。そして神から救い主を見るまでは死なないと約束されていた。そんな希望を持って生きていたようだ。
シメオンは幼な子のイエスが救い主であると示される。そこで神を讃美する。この賛歌はヌンク・ディミティスと言われる。
この中でイエスのことを「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と告げる。イエスはイスラエル民族だけの救い主だけではなく、全世界の民の救い主であると予言する。31「これは万民のために整えてくださった救い」だと言う。会っただけでそんなことがどうして分かるのかと言う気もするけれど。おもしろいことに30「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言う。
しかしどうしてイエスがキリストだとわかったのだろうか。そんなことありうるんだろうか。イエスはまだ赤ん坊でしかない。イエスは何の業もしていない。なのにシメオンは救いを見た、と言う。イエスが救いだというわけだ。そしてこのイエスに会うこと、イエスに接することが救いなのだろう。
救いというと、全く違う別の私にしてもらうこと、駄目な私を立派な強い人間に変えてくれることが救いだと思う。あるいは私のまわりを全く別の世界に変えてもらうこと、苦しい大変な状況をなくしてくれたり、自分を苦しめる人間を遠ざけてくれる、あるいはいい人間に変えてくれることが救いであると思い、それを願うことが多い。けれども救いとはそんなことではなくて、イエス自身が救い、そしてそのイエスと出会うことが救いなのだ、とシメオンは言っているようだ。
シメオンはここで預言したようなことが書かれているけれど、この言葉はむしろ福音書を編集したルカの信仰告白なのではないかと思う。イエスこそユダヤ人たちが待ち焦がれていた救い主である。しかしそれはユダヤ人だけではなく、万民のための救い、異邦人をも照らす啓示の光なんだということをルカは伝えようとしているのだと思う。
希望
シメオンは、いつかキリストに会う、会えるという希望を持って生きてきていたようだ。希望を持つこと自体が救いなんじゃないかと思うようになってきた。
苦しい状況、大変状況の中にあっても、そこで希望を持てるならば生きていける。生きる上ではお金のこととか健康のこととか人間関係のこと、自分のことや家族のこと、心配なことがいっぱいだ。そんな大変な状況にばかり目を奪われていると生きていく力もなくしてしまいそうだ。
でも私たちのもとへイエスがやってきた、救いがやってきた、ルカはそのことを伝えている。苦しい状況を抱えて生きている私たちのもとへイエスがやってきたのだ。見えないけれどいつも一緒にいてくれている、見えない所で私たちを支えてくれている、私たちを大事に大事に思ってくれている、そのイエスがやってきた、救いがやってきた、ルカはそのことを伝えている。
先の見通しが立たないと安心できないし、この先どうなるのかと心配ばかりになる。しかし私たちは希望を持つことができる。私たちにはイエスがいるから、イエスが共にいてくれるからだ。
イエスはどう助けてくれるかわからない。天からお金を降らせてくれたり、一気に病気を治してくれたり、自分の周りの状況をがらりと変えてくれたりなんてことはないかもしれない。多分ないだろう。でも私たちが一歩を踏み出す少しの元気と希望をイエスは与えてくれるのだと思う。私たちが一歩を踏み出すことは世界を変えることよりも大きなことだと思う。
そんな力をイエスはきっと与えてくれる、その希望を持っていきたいと思う。苦しい状況が変わることを求めてもなかなか変わってくれなくて失望することが多い。状況を変えてもらうことよりも、私たち自身の中に一歩を踏み出す力を与えてくれることを願った方がいいような気がする。大丈夫だ、私がついている、そう言われているような気がしている。イエスが共にいる、そこに私たちの希望の素がある。