前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「落ちこぼれの傍らに」 2014年12月21日
聖書:ルカによる福音書2章1-20節
不条理
人生はなかなか思うようにいかないなあと思う。なかなかというより全然と言った方がいいのかも。昔テレビで有名私立小学校だったか小学生に将来何になりたいかと聞いたのを見たことがあるけれど、弁護士になりたいとか、医者になりたいとか、官僚になりたいとか言っていた。順調にいい成績を取っていい学校へいって、順調にいい仕事について、良い人と結婚して、という風に順風満帆に進むことを目指してその通りにいくことがいい人生だ、と何となく思っている。そして躓いて落ちこぼれるのは失敗の人生だというような気持ちがある。でも人生というのはそうそう思うようにいかない。躓いたり失敗したりすることがある。一度の躓きや失敗で落ちこぼれるとしたら、この世は落ちこぼれの集まりのような気がしている。
自分の躓きや失敗以前に、生まれながらにして大変さを背負っている人もいるように思う。この前見たアメリカの映画の中で、黒人が差別される社会の中で、黒人と白人のハーフに生まれたけれどなんかとかして白人になろうとしていたという女性が出ていた。
障がいを持って生まれてきた人、愛してくれない親のもとに生まれた人、貧しい家庭に生まれた人、黒人の人もそうかもしれないけれど周りから差別の目で見られている家庭に生まれた人などは、生まれながらに落ちこぼれの烙印を押されているような思いでいるのではないかと思う。どうしてこんな身体に生まれたのか、どうしてこんな家に生まれたのか、どうしてこんな親の元に生まれたのか、そんな風に思う人もいっぱいいると思う。
飼い葉桶
今日の聖書はイエス誕生の様子が書かれている箇所だ。
母マリアと許婚であるヨセフは住民登録をするためにベツレヘムという町へ行かねばならなかったと書かれている。彼らの住んでいたナザレからベツレヘムまでは120qほどもあるそうだ。もうじき子どもが産まれるというのに、電車も自動車もない時代に120kmも離れた町まで出かけねばならなかったというのだ。
しかもベツレヘムに着いてからも7節にあるように、宿屋には彼らの泊まる場所がなく、仕方なく家畜小屋に泊まっていたためこんなことになってしまったらしい。旅先での大変な不安な出産だった。こんなひどい出産聞いたことない。
イエスは生まれてすぐに飼い葉桶に寝かされていたと書かれている。つまり家畜の餌の入れ物の中に寝かされていた。そこがどんな場所だったのかはっきりとはしないけれども、飼い葉桶があることから家畜小屋だろうと言われている。とてもじゃないけれど清潔とはいえないところに生まれた。またそこは家畜によって踏まれるか、あるいは蹴られるかする危険があるところだった。何でよりによってそんなところで生まれたのだろうかと思う。
羊飼い
イエス誕生の知らせを最初に伝えられたのは羊飼いたちだった。その頃ユダヤの地方では羊飼いは落ちこぼれた人達と見られていたそうだ。羊飼いという仕事は当時はまっとうな仕事とはみなされていなかった。羊飼いは人口調査の対象にもならず、税金を支払う能力もないと考えられ、一人前の人として認められていなかったそうだ。ユダヤ教が社会の基盤となっていた時代だったけれど、羊飼いは各地を転々として羊を放牧するため、決まった時に神殿に行き献げ物をすることが出来ないとか、あるいは安息日などの律法を守れないということで宗教的な面からも社会の落ちこぼれと見られていたそうだ。
しかしこのルカによる福音書によると、イエスの誕生を最初に知らされたのはそんな羊飼いたちであった。社会からのけ者にされている者たち、社会からつまはじきされている者たち、言わば落ちこぼれの代表であった羊飼いたちにキリストの誕生は真っ先に知らされたというわけだ。
天使が突然現れた時には、羊飼いたちは非常に恐れたとあるが、それでも彼らは天使の言葉を聞いた後にイエスに会いに出かけていった。そして見事に探し当てたと書かれている。どれくらい探したのか、家畜小屋をしらみつぶしに探したのだろうか。そこで発見したイエスは天使の言うとおり、飼い葉桶に寝ている一人の乳飲み子であった。無力な乳飲み子であった。ただの赤ん坊であった。
羊飼いたちは見聞きしたことが天使の言う通りだったので神をあがめ、讃美しながら帰っていった。彼らが神をあがめ讃美したのは、この赤ん坊が光り輝くような子どもだったからでもないだろう、この子はごく普通の小さな何もできない赤ん坊だったはずだ。しかしそれが神の知らせてくれたとおりだったので神をあがめ讃美しながら帰っていったようだ。
出会い
羊飼いたちは救い主に、イエスに会っただけ、見ただけで満足して帰ってしまったことがなんだか不思議だなと思う。
私たちは神に会う、救い主に会うとなるといろんなことをお願いしたくなるんじゃないかと想像する。大きなことから、小さなことまで、これして下さい、あれもして下さいとお願いしそうである。少しでもいいからお恵みをと言いたくなる。
しかし羊飼いたちは、乳飲み子から何かをしてもらおうとはしなかった。救い主に接して、彼らは自分の願い事をかなえてもらうように頼みもしなかった。
乳飲み子に会っただけで、彼らは神をあがめ讃美しながら帰っていった。彼らは願い事をしに行ったわけではなく、会いに行っただけだろうけれど、もうそれだけで十分といった感じだ。それ以上のものは必要ないといったようなことかもしれない。それに比べればなにかをしてもらうことなど、たいしたことではないかのようだ。
というか、彼らにとっては救い主を見ることこそがなによりの願いだったのだろう。そして彼らにとってはそれこそが一番の喜びだったのだろう。自分たちの救い主がキリストが生まれた。それでもう彼らは喜びいっぱいだったのだろう。それを確かめただけで彼らには十分嬉しかったようだ。
それは神が自分達のことを見つめてくれていることを知ったから、自分達がひとりぼっちではないことを知ったからではないかと思う。
注目
私たちは弱い存在である。何か少しでも順調に行かなくなったらうろたえてしまう。失敗し挫折し、その度に落ち込み、こんな自分では駄目だと自分を責める。あるいは思いもよらない苦しみに遭遇し、生きていること自体がしんどいと思うこともある。
失敗も挫折もないところに、或いは災難のないところに私たちの幸せがあるように考える。言わば落ちこぼれないところに幸せがあり、落ちこぼれた自分には幸せはないと思ってしまっている。しかし、どうやらそれを避けて通るわけにはいかないようだ。人生には思うようにいかない事、挫折や失敗がつきもので、その度に私たちは苦しんでいる。
自分はどうしてこんな駄目な人間なのかと思う。どうして社会にうまく適合することもできないのか、あれもできない、これもできない、自信もない、能力もない、こんな自分はただ落ちこぼれの人生を歩むしかないんだと思ってしまう。
しかしイエスはそんな社会から落ちこぼれ苦しみうめく私たちの所に生まれてきた、聖書はそう告げているようだ。そして十字架へ向かう命を生きられた。それは苦しみつつ生きている私たちと寄り添うためだった、私たちをひとりぼっちにさせないためなのだろう。
苦難も失敗も挫折もある、そしてやがて私たちには死が待っている。そんな私たちのこの人生に、どこまでも寄り添う、私たちの悲しみや苦しみに寄り添う、死ぬ時にも寄り添う、そのためにイエスは生まれたのだ。
自分の苦しみや悲しみを分かってくれる方がいることを知ること、いつも寄り添う方がいることを知ること、それは私たちにとっての救いだ。確かめられないし信じるしかない。しかしそれを信じて生きるのは幸せなことだ。
社会的には疎外されのけ者にされている羊飼いたちは喜び、讃美しながら帰っていったのだ。イエス・キリストに会うことで彼らの状況が変わったわけではない。何も変わっていない。しかしその中で彼らは喜ぶを発見したのだ。
だから羊飼いたちはイエスに会ってもことさらに何かを求めることもなかったのだろう。自分の人生に神が関わっておられること、自分のところにキリストが来てくれたこと、ひとりぼっちではないことを知ったこと、それが彼らにとってはなによりの喜びだったのだろう。
除け者
生まれたばかりの赤ん坊は飼い葉桶に寝かされていたという。そしてそれは宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからだという。もうじき赤ん坊が生まれそうだという産婦を泊める場所がどこにもなかったというのだ。イエスは生まれる時からのけ者にされていたわけだ。
人の優しさが一番必要な時にやさしくされない、そんなところにイエスは生まれた。しょうがないよ、宿屋はいっぱいなんだから、と人が邪険にしてのけ者にして、追い出している、そんなところにイエスは生まれた。人から、社会からのけ者にされ冷たくあしらわれるところにイエスは生まれた。だからこそ、社会からつまはじきされている羊飼いたちに最初のクリスマスの知らせが届いたのだろう。
社会が見捨てたところにイエスは生まれた。誰からも大事にされない、誰もが認めないところにイエスは生まれた。私たちは社会に適応できない自分をダメだと思っている。社会に認められないとダメだと思っている。社会が認めるものを持っていない自分のことをダメだと思っている。またいつ社会からつまはじきされやしないか、のけ者にされやしないかと心配している。
しかしイエスはそんな誰からも認められず、そして自分自身でも自分を駄目だと思っている、そんな落ちこぼれの傍らに生まれたのだ。こんな事ではダメだ、社会に認められないと思っているそんな人の隣にイエスは今もおられるのだ。誰からも見放されてしまってひとりぼっちになってしまっている人に会うためにイエスは生まれたのだ。そしてその人といつも共にいること、その人をいつも愛していることを知らせるために生まれたのだ。聖書はそのことを伝えている。そして私たちは毎週の礼拝でそのことを聞いていく。
「クリスマスのメッセージ、
それは、私たちは決してひとりぼっちではないということ。」
テイラー・コールドウェル