前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「注目」 2014年12月14日
聖書:ルカによる福音書1章26-45節
処女降誕
昔ある大きな教会で運動会か何かをした時に、二つのグループを作って競技することになった。そしてそのグループ分けをする時にそこの牧師が、「処女降誕を信じる人はこちら、信じない人はこちら」と言って分けた、という話しを読んだ。それまで聖書は一字一句全部真実だと思っていたのでびっくりしたというようなことが書いてあった。
マリア
今日の箇所ではイエスの母となったマリアが登場する。
マリアは「ナザレというガリラヤの町」に住んでいた。ここは田舎の町だったようだ。マリアは田舎の名もない少女だった。
そしてマリアはヨセフの許嫁であった。このヨセフはダビデの家系であった。ユダヤ人たちはキリストはダビデの家系に生まれると考えていた。しかしイエスはヨセフの子としてではなく、聖霊によってみごもったと聖書は記している。
天使ガブリエルがマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言う。マリアはこれを聞いて戸惑った。
そこで天使は「恐れることはない」と告げる。そして「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」と告げた。
マリアは、どうしてそのようなことがあるのか、結婚もまだなのに、と答える。天使はマリアに、親類のエリサベトも妊娠している、神に出来ないことは何一つないと答えた。そしてマリアはエリサベトに会いに行った、という話しだ。
重大事
当時は十代の半ばで結婚したそうだ。その少し前に許嫁になるのだろうけれど、正式に結婚してない段階で妊娠するということは一大事だったに違いない。
マリアにとって大いに困った話しだ。今の日本でも結婚前に妊娠することはできちゃった婚と言われてちょっと間違っていることのように言われる。当時は許嫁とは言え、結婚する前の女性が妊娠することは当時は今よりももっともっと大変だったであろう。そんな状況の中にイエスは生まれた、とルカは伝えている。
マリアは、聖霊の働きなんだからと言われ、お言葉どおりこの身になりますようにと答えたと書かれているけれど、実際にはすぐ納得できるような状況ではないと思う。
クリスマスの出来事は実際にはあまりはっきりとはしない。福音書の中で一番始めにまとめられたと思われるマルコによる福音書にはイエス誕生の出来事は何も書かれていない。マタイによる福音書には書かれているけれど、ルカの話しとは大分違う。マルコによる福音書が纏められた後にイエス誕生の物語が出来上がってきたのだろうと思う。
当時は偉大な人物は処女から生まれると伝えられていることがよくあったそうで、イエスだけが特別ではないそうだ。そしてルカも処女から生まれたことを殊更強調するわけでもない。それよりも、名もない町の年端もいかないひとりの若い女性から生まれたということを言いたいようだ。
バプテスマのヨハネを身籠もったエリサベトは年を取ってからの妊娠であり、逆にマリアは早すぎる妊娠だった。エリサベトは、あんな年になって妊娠するなんてと言われ、マリアは結婚もしてないのに妊娠するなんて、と言われる、そんな状況に立たされたというわけだ。正式に結婚してすぐに妊娠したのならば誰からも陰口をたたかれることもない。
マリアに対する世間の風当たりは当然強く、後ろ指を指されるようになることが十分に考えられる。許嫁のヨセフがどう思うのかも分からない、婚約も解消されることも十分考えられる。そうすると下手をすると石打の刑に処せられるかもしれない、マリアはそんな風にとても負いきれないような危機的な事態に立たされていることになる。
注目
しかし神はそんな名もない力もない普通の女性マリアに注目しているとルカは告げている。そしてルカはマリアを通して、同じように無力な私たちを神は注目しているということを伝えているのだろう。
世間の常識から外れたところでいきていくしかない、思わぬ出来事にうろたえながら、そして陰口をたたかれることを恐れながら心配しながら生きていくしかない、そんな状況に経たされている人達を神は見捨ててはいない、むしろそんな人達を注目しているんだということをルカは伝えようとしているのではないかと思う。
聖書のいろいろな出来事の中で、本当にそんなことがあるんだろうか、と思うことがいっぱいある。いろんな奇跡のことや、えらく信仰深い話があったりする。しかしそれ以上に信じられないと思うことは、神がわたしの事を特別に見ているということ、一人一人を大事に思っているということだ。
「どうしてそんなことが」と思う。どうして神がいちいち私ひとりのために、特別に配慮なんかするもんか。こんなだらしない、駄目な私のことなんかそんなに思ってる訳がないと思う。
こんな言葉を見た。
「世界中が見捨てた所を神は見つづけている。人間の考えではもっとも神から遠いと思われる所に神はいる。まさかここに奇蹟はおこらないだろうと思われる所で神は奇蹟を起こす。
人間が失われたというところで神は見いだしたという。
人間が裁かれたというところで神は救われたと言う。
人間がそんなことではだめだ、こんな自分ではだめだというところで、神はいやそれでいい、お前のままでいい、そのままでいい言う。
人間が投げやりな気持ちからそんなこと起こるわけがないと思い、もう諦めたと思うところに、神は愛のこもった目を向ける。」
どうして
どうしてそんなことがありえましょう、とマリアは言ったと書かれている。それはルカの言葉でもあり、また私たちの言葉でもある。
神があなたに注目している、あなたの上に神の業が及び、神の力によってあなたは大きなことをする、なんて言われても、私たちもどうしてそんなことがと思ってしまうのではないだろうか。
詳しいことは分からない、けれどもこのマリアからイエスが生まれたことは事実であるようだ。無名な無力なマリアを通して神は大きな出来事を起こしている。
立派にはなれない、むしろ落ちこぼれでしかない、社会の常識に合わせて生きていくことも出来ない、生きていくだけで精一杯、そんな私たちだ。
けれども神は小さな無力なあなたに注目している、たとえどんな危機に直面したとしてもあなたをしっかりと見ている、そのことをルカは伝えたかったのではないかと思う。