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礼拝メッセージより
「沈黙」 2014年12月7日
聖書:ルカによる福音書1章5-25節
祭司
バプテスマのヨハネの父親となったザカリヤは祭司だった。祭司には民を代表して聖所に入って香をたく務めがある。聖所では何が起こるかわからない。未知との遭遇、神との遭遇の可能性がある。そこで気絶するなどして出て来れなくなることも考えられていたそうだ。倒れても決まった者しか入ってはいけないので他の人が入ることができない。そこで聖所に入るときは足にロープをつけていたという話を聞いたことがある。倒れたときにはそのロープを引っ張って引きずり出すためだった。神を見ると死んでしまうというふうに考えられていたらしくて、許されていない者が聖所に入るわけにはいかなかったようだ。
当時は2万人以上の祭司がいたという説もあるそうだけれど、その祭司が24組に分けられていた。つまり各組には1000人近い祭司がいたことになる。そして一つの組には年に2度、1週間の務めがあたえられて、その時にはくじをひいて務めにつき、その最も大切な務めは香をたき祈ることだった。
この時ザカリアがくじによって香をたき祈るつとめに当たった。祭司が大勢いたのでくじにあたることも多くはなく、聖所に入って香をたく務めにつくなんてことはとても稀だった、あるいは一生に一度あるかないかというような経験だったのではないかと思う。恐らく緊張する務めについていた時に天使が現れたわけだ。ザカリヤは不安になり恐怖の念に襲われたと書かれている。緊張している務めの最中に予想外の出来事が起こり、しかも神を見ると死んでしまうというような考えもあっただろうし、ザカリアが恐れるのも当然だろうなと思う。そんなザカリアの様子と様子を見て天使は、恐れることはないと行ったのだろう。そしてあなたの願いは聞き入れられた、そしてその子はイスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせるなんてことを伝えた。
ザカリヤと妻のエリサベトには子どもがなかった。当時のユダヤの地方では、子どもがあることは祝福されていることと考えられていた。だから子どもがないことは祝福されてないことでもあった。彼らは子どもがないという負い目を感じながら生きていたことだろう。だから子どもができることを心底願っていたのだろう。そしてそれが実現するということは何よりも大きな喜びだったんじゃないかと思う。
しかしザカリヤとエリサベトは年を取っていた。子どもができると言われてもにわかには信じがたいほど歳を取っていたようだ。
ザカリアは何によってわたしはそれを知ることができるでしょうか、とガブリエルに問いかける。それに対する答えは見あたらない。答はないようだが、このことを信じなかったので口が利けなくなると言われる。あるいはそれがしるしなんだろうか。口が利けなくなることで彼に子どもが生まれるということ、預言者となる子どもが生まれるということを知ることが出来るということかもしれない。そうすると口が利けなくなるということは、信じなかった罰のような気がするけれど、同時に子どもが生まれるということのしるし、夢でも幻でもない天使と出会った、そして子供が生まれるという約束を聞いたという証拠でもあったということのようだ。
天使の言葉通り、エリサベトは身ごもる。エリサベトは主が自分に目を留めて、恥を取り去ってくださったと喜ぶ。それだけ子どもがないことで辛い思いをしていたということだろう。
喜び
バプテスマのヨハネの誕生についての天使の説明、それはザカリアにとっての喜びとなり、楽しみとなるということだけではなく、多くの人もその誕生を喜ぶということだった。そしてさらに、ヨハネは主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒と強い酒を飲まず、母の胎にいるときから聖霊に満たされている。そしてイスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。民を神のもとへ連れ戻すということだ。
ぶどう酒と強い酒を飲まないというのは、旧約聖書に出て来るナジル人の誓いなのだそうだ。旧約聖書の時代には神に身を捧げたナジル人というのがいた。サムソンやサムエルがそうである。このナジル人の特徴は、髪の毛を切らないということと、ぶどう酒などを飲まないということであった。
この「ぶどう酒や強い酒を飲まない」というのは、酒を飲むと酔っ払っておかしなことをしないためということではなく、農耕文化の拒否らしい。ぶどう酒は勿論ぶどうから作り、強い酒というのは、麦やりんごなどから作ったもので、いずれも農耕文化の産みだしたものだ。ナジル人がどうして農耕文化を拒否したかと言うと、イスラエルがカナンの偶像礼拝によって罪を犯したのは、バアルなど農耕文化の神々を崇拝したからであって、この農耕文化が唯一の神から背かせるものだ、と考えがあったからだ。そこで彼らは農耕文化の産みだしたものを拒否して純粋な信仰を守ろうとして、ぶどう酒や強い酒を飲まなかったそうだ。
ヨハネは、大きくなって、荒野に住み、「らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野密とを食物としていた」と言われているが、これもすべて農耕文化を拒否し、唯一の真の神に対する信仰を守ろうとすることであるようだ。つまりヨハネはそのようなナジル人として純粋な神信仰を求める者になる、というのである。
誕生
ヨハネが生まれた時のことが1章57節以下に書かれている。
エリサベトが子どもを産むということで近所の人も親類も喜んだ。そして八日目になり割礼を施し、名前を付ける時がやってきた。
人々は父親と同じようにザカリヤという名にしようとした、という。そうする習慣があったということだろうか。ところがエリサベトがヨハネにするのだと言い張った。そうしなければならないと主張したという。しかし親類の中にはそんな名前の者はいないと反論する人がいた。けれども母親が頑なにヨハネだと主張するので、今度は人々は口の利けない父親にも尋ねる。手振りで尋ねた、と書かれている。ということはザカリヤは口が利けないというだけではなくて、耳も聞こえなかったということなんだろうか。
そうすると父親は字を書く板を出させて、その名はヨハネ、と書いたと言う。そこで人々は驚いた。一体何に驚いたのだろう。きっとそれは、好きこのんでわざわざ親類にない名前をつけようとしているということでもあるだろう。しかしそれよりも、夫婦が確信をもってヨハネだと主張する何かを持っているということに対して驚いたのではないかと思う。この夫婦にそうさせる何かがあったのだということを周りの人たちも感じ取って驚いたのではないか。そこにただならぬものを、つまりそれは神の不思議な導き、神の働きが二人にあったということを実はこの時初めて感じたのではないかと思う。神がエリサベトを大いに慈しまれて子どもを与えてくださった、と言って集まっていた人たちだったのだろうと思う。そのことを口にしながらいっしょに喜び集まってきていた人たちだっただろう。でも二人がヨハネだと主張する姿を見て初めて、本当にすごい神の働きがあったのだと思ったのではないか。
その時ゼカリヤは話せるようになって神を讃美し始めたと言う。
願い
最初に天使はザカリアに対してあなたの願いは聞かれたと言った。彼にとっての願いは勿論子どもが与えられるということだったのだろう。しかし年を取る毎にその願いはだんだんとしぼんでいたのだろう。だからザカリアは天使に願いは聞かれたと言われても信じられなかったんだろう。願いがかなったと告げられた途端にそのことが信じられないと言うちょっと皮肉なことになってしまったのだ。信じられなかったけれども、やはり聞かれたのだ。
しかもただ子どもが欲しいという願いが聞かれただけではなくて、そのヨハネは、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる、彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する、というとてつもない務めを果たすために生まれて来るというのだ。
自分たちの民を神のもとへ帰らせるために生まれて来るというのだ。ザカリアの祈っていた以上のものを神はそこに用意されているということなのではないかと思う。
バプテスマのヨハネはその後イエスを指し示しイエスにバプテスマを施す事になる。そのヨハネの誕生は、ただ一組の夫婦の願いを叶えその夫婦に喜びを与えるだけではない、世界を揺り動かす大きなる神の計画がそこから始まったんだということなんだろう。
信じられなくて口が利けなくなる、というようなこともはらみながら、神の大いなる計画は進んでいった。
沈黙
口が利けない間、ザカリアは聖所であった出来事をみんなに言い広めることが出来なかった。天使に会うなんていうすごい出来事があればみんなに自慢したくもなりそうだ。けれどもそれができないようになった。あるいは何があったのかをみんなに説明することもできなかっただろう。
天使と会ったとか子供が生まれると約束されたとか、そんなことを説明をしても、そんなことあるわけがない、馬鹿なことを言うなと言われかねないことでもある。しかし口が聞けないとそんな問答を強いられることもなくなる。ザカリアに強いられた沈黙は、神がそんな問答からザカリアを守るためだったのかもしれないと思う。
さらにその沈黙によって、ザカリアはその聖所での出来事、天使の伝えた言葉についてじっくりと思い巡らすことができたのだろうと思う。
聖書教育には、ザカリアがものを言えなくなるほどまでに神の側の御業に圧倒される、という生き方が、実は福音と呼ばれるものの内容なのです、という言葉を載せていた。
この沈黙は信じなかった罰ではなく、神の大きさ偉大さに圧倒されたことに対する自然な反応なのかもしれない。そしてザカリアは沈黙することで神の計画を思い巡らす時を持ったのだろう。
祈りが聞かれたとか聞かれないとか、私たちはすぐ結論を出しすぎるのかもしれない。神の計画があるとかないとか、あるいは神の計画はあれだとかこれだとか、すぐに答を求めすぎるのかもしれない。
それは映画を見るのに似ているような気がする。映画の最初の数分だけでいいとか悪いとかなんて早々分からない。全部見ないと善し悪しは分からない。映画の伝えたいことも分からない。
映画を全部見るように、私たちはもっと沈黙し、神の大きさや神の計画を思い巡らした方がいいのではないか。そこで神の言いたいこと、伝えたいこと、つまり神の言葉が聞こえてくるのではないか。沈黙の中にこそ神の声は聞こえてくるのだろう。