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礼拝メッセージより
「首ったけ」 2014年11月30日
聖書:イザヤ書9章1-6節
シシリア・エフライム戦争
今日の預言が語られた当時はイスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に別れていた。北からはアッシリアという強い国の脅威が迫っていた。アッシリアは首都がニネベで、今のイラクの北部にあたるようだ。領土が最も拡大した時にはペルシャ湾からエジプトまで支配するような強い国だった。そんな強い国がこの当時はイスラエルの北の方にあった。
イザヤ書6章には、ウジヤ王が死んだ年にイザヤが神から神の言葉を伝えるようにと預言者として召命を受けたことが書かれているが、そのウジヤ王の時代にはアッシリアの勢力もまだパレスチナまでは、さほど及んではいなくて、北イスラエルも、南ユダも平和で繁栄していた。
ところがウジヤ王の晩年、紀元前745年に、ティグラト・ピレセル3世がアッシリアの王となってから、パレスチナ地方にも勢力を伸ばして来た。度々遠征してきて、小さい国を侵略して貢ぎ物を取り立てるようになった。北イスラエルのさらに北、シリアにはアラムという国があったが、アラムの王レツィンと北イスラエルの王ペカは同盟を結んでアッシリアに対抗しようとした。アラムとイスラエルはアッシリアから多くの貢ぎ物を要求されていたようで、何とかしてそれをはねのけようとしていたようだ。そして南ユダのアハズにも同盟に参加するようにと要請した。この地域が結束してアッシリアに対抗しようということだった。けれどもアハズはそれを拒否した。するとアラムと北イスラエルは南のユダを攻めてきた。これをシリア・エフライム戦争というそうだ。
そのことがイザヤ書7章のところに書かれている。アラムとイスラエルが同盟を結んだことを知ったユダの人たちは王も民もみんな動揺した。南ユダのアハズ王は恐れの余り、自分の子を焼き尽くす献げ物として献げるという異教の儀式を行ったと列王記下16章には書かれている。
主はイザヤに対して、落ち着いて静かにしているように、というアハズへの言葉を託す。同盟軍は新しい王を据えようと画策しているけれども、それは上手くはいかない。主なる神にしるしを求めよ、と告げる。アッシリアに援助を求めないで、防衛戦争をすべきだと助言した。神が守ってくれると約束しているのだから、落ち着いていなさい、おかしなことはするな、ということだ。
しかしアハズは、わたしは求めない、主を試すようなことはしない、と応えた。そこで主は「わたしが自らあなたたちにしるしを与える。おとめが身ごもって男の子を産む、その名をインマヌエルと呼ぶ、それがしるしだ」と告げる。そのあたりのことが7章に書かれている。
これに対して南ユダのアハズ王は、アッシリアのティグラト・ピレセルに助けを求めて、神殿と王宮の宝物庫に銀と金を贈り物として送った。ティグラト・ピレセルはアハズ王の求めに応じて、北イスラエルの地中海沿いの地区、ガリラヤより北の地区、ヨルダン川東岸のギレアドの三地域を占領した。さらにアラムの首都ダマスコを占領して、アラムの王レツィンを殺して、住民を移住させた。
その後アハズ王はアッシリアの王に会うためにダマスコへ行ったけれども、そこで見た祭壇の見取り図と詳しい作り方の説明書をエルサレムに送って、同じものを作らせて、そこで献げ物を献げた、と列王記下16章に書いてある。
アハズはイザヤの忠告に従わずアッシリアに助けを求めた。そういう対立があったので、イザヤは次の王ヒゼキヤが即位するまではエルサレムで公に預言活動することができなかったそうだ。
ヒゼキヤが王となったのは列王記下18章には25歳と書かれているが、5歳の時だという節があるそうだ。イザヤは若い王に期待を掛けていたようだ。今日の箇所はこのヒゼキヤの即位にあたって、イザヤが語ったと考えられているそうだ。
9章のすぐ前のところでは、「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」と言われている。この地域はシリア・エフライム戦争の時にアッシリアによって占領された地域だ。その占領された地域で苦しい生活をしている人たち、闇の中を歩む民は、大いなる光を見る、その人たちの上に光が輝いた、そして深い喜びと大きな楽しみを与えられると言う。
そして9章では、ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた、ひとりの男の子がわたしたちに与えられた、権威が彼の肩にある、その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君、と唱えられる、と言われる。イザヤの期待の大きさが表れているようだ。
見えるもの、見えないもの
イザヤは神の言葉を告げる。神の約束を告げる。しかし現実に見えているものは大国アッシリアの脅威であり、反アッシリア同盟軍である。目の前に脅威が迫っている時、アハズ王はイザヤの言葉が神の約束だとは思えなかったようだ。あるいはそうかもしれないと思ったかもしれないが、その神に頼ることができなかった。彼は目に見える力、アッシリアの力に頼った。そしてイザヤが期待をかけていたヒゼキヤも、アッシリアに脅威が迫ってくると、ただ神に頼れというイザヤの忠告を守ることはできず、エジプトに頼ったりバビロニアに頼ったりしたようだ。
でもイザヤは神にこそ頼るべきだ、神こそ頼りになる、と繰り返し告げる。そこにこそ平和がある、その神の平和は絶えることがないと告げる。
闇の中を歩む民に、死の陰の地に住む者に希望を与える、それが神の意志、神の熱意なのだ。
暗闇
この言葉は厳しい現実を生きている私たちに対しての言葉でもある。
私たちも不安をいっぱい抱えて生きている。よその国から攻められてくるかもしれないなんていう心配はあまりないが、けれどもこの先の人生どうなるのかという不安はいっぱいある。自分の人生を自分の力で切り開いていく自信がある人はそうではないかもしれないけれど、そんな自信持っている人はあまりいないだろう。こんな自分は将来大丈夫かと思う。自分には能力も技術もない、ずっと仕事も続けられるのか、この先食べていけるのか、住むところはあるのか、そんなことまで心配だ。いつまでも元気でいられるかどうかもわからない。将来を考えると不安だらけだ。お金がいっぱいあったり、将来を保障してくれるものがあれば安心できるのかもしれないけれど、そんなものない。現実に目に見えるものは、自分自身のことを見てもまわりのことも見ても不安になるものばかりだ。
けれどもそんな私たちに神は語りかけてくれている。見えない所で、お前達を私が支える、お前達を見えない光で照らす、そう言われているようだ。イエスこそ、そんなみどりごだ、と新約の時代の人は考えた。
首ったけ
「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」。神は熱意をもって私たちを見つめている、守っている。神の熱心がイエスとなった。具体的な人となった。神が人となってこの世に来られた。
神は私たちに熱意を持っている。私たちに熱心になっている。私たちに首ったけ、なのだ。この熱意という言葉は、熱心という意味のほかに、嫉妬という意味を持つそうだ。ジェラシーという意味と同じ言葉、嫉妬するほどの熱意、ということだ。神は私たちが自分の元から離れていることに対して嫉妬するほどなのだ、それほどの熱心さをもって私たちを見ているのだ。だからこそ、イエスは私たちを取り戻すために、神が私たちを自分の元に連れ戻すためにここにこられたのだ。そんな気持ちで私たちを見ている。
イザヤが直接イエスのことを預言して語ったというわけではないだろう。しかしイザヤの言葉はイザヤが意識していたヒゼキヤ王ではなく、イエスにこそ当てはまる言葉だった。
イザヤは苦しみの真っ只中にある人たちに向かってこのことを語った。今も先の見えない暗闇の中にある者に向かって、何をどうしていいかわからず、うろたえている人に向かって、あなたを神が照らす、と語っている。それは神があなたに熱心だから、夢中だから、首ったけだから。
だから見える物にばかり目を奪われるのではなく、見えない神の言葉をしっかりと聞いていきたいと思う。実はそこにこそ平和があり、平安があり、希望があるのだ。