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礼拝メッセージより
「喜び楽しむ」 2014年11月23日
聖書:イザヤ書65章17-25節
後悔
歳を取ると、世の中のいろんなことが分かってきて、人間とはどういうものかも分かってくるのかと思っていた。人間には一生の間に知るべき決まっている量があって、少しずつ知ることが増えていって、その分知らないことが減っていくのかと思っていた。要するに学校のカリキュラムのように、知るべきものというのが決まっていて、歳を取る毎に学ぶべきもの、知るべきものも減っていくのかと思っていた。でも実際は知らないことは減っていかないで、歳を取る毎に知らないことがこんなにいっぱいあるということが分かってきて、逆に知らないことが増えていくような気がしている。
そして歳を取る毎にいろんなことを知っていくことで、いろんなことが分かってきて、不安や恐れとかいうものも段々となくなっていくのかと思っていた。でも実際にはそんなことは全然なくて、相変わらず不安や恐れがいっぱい。それに、あの時こんな間違いをしてしまったとか、あの時ああしとけばよかった、なんていう後悔は歳を取る毎にどんどん溜まっていくばかりだ。
創造
バビロン捕囚から解放され故郷へ帰ってきたユダヤ人たちだったが、破壊された神殿の再建は外国の妨害もありなかなかはかどらず、自分達の暮らしもよくならず、いったいこの先どうなるのか、自分達のしていることは間違いなのか、そんな不安と心配が渦巻いていたようだ。神を信じるということにも無力感を感じ、神の命令に逆らい、外国の神を信じるようなこともあったようだ。
しかしここで神は新しい天と新しい地を創造する、と言う。何もかも新しくするという。ただ外側だけ、見栄えだけ変えるのではなく土台から、根っこからまるっきり変えてしまうということだ。ただ形だけを変えるのでもなく、全てを新しくするという。
初めのもの
そして初めからのことを思い起こす者はない、という。かつての苦しみ、かつての嘆き、かつての絶望感、それらを思い起こすことがない、だれの心にもそれが上ることがない、それほどまで徹底的に新しい天と新しい地を創造するというのだ。
現実
この第三イザヤの言葉を聞いた当時のイスラエルは、バビロニア帝国を滅ぼしたペルシャという国によって解放されてバビロン補囚から帰ってきた。ペルシャは大きな領土を持った国で、それぞれの民族に寛大でそれぞれの宗教を尊重したそうだ。イスラエルの神殿を再建することも認め支援した。宗教的にはそんな自治が認められた。けれども再建しようとしたけれどもイスラエルの復興はなかなか進まなかったそうだ。そんな時にペルシャの王の後継者争いが起こり、ペルシャの支配が少し弱くなったことがあった。それに乗じて独立しようと言う運動が起こったが結局失敗してしまったそうだ。補囚から帰ってきたとはいえ、ずっと他の国の支配の下にあり、復興もうまくいかず、独立運動も挫折してしまい、バビロンから帰ってくる当初に持っていた希望も失いかけていたそんな時期だったようだ。
夢を持っては敗れ、また次の夢を持っては敗れの連続だったのではないかと思う。苦しいことの連続、こんどこそ明るい未来が来る、と期待しても裏切られ続ける、そんなことの繰り返しだと疲れ果ててしまうだろう。バビロニア軍に敗れて以来50年以上そんな状態が続いているのだ。
見えるもの
何をやってもうまくいかない、何もかも片づかない、整えられない、目に見える現実はそんなものだった。あそこがこうなれば、ここさえうまくいけば安心する、心から喜べる、けれどもそんな期待はみんな裏切られてしまう、そんな時一体神は私を見捨てたのか、私たちを忘れたのか、神はどこにいるのか、いつまで怒っているのかと思ってしまう。こんなダメな民族のことを神はもう見捨てたに違いない。もうどうしようもないのだ、ずっと苦しみが続くのだ、そんな諦めの気持ちもあったのだろう。
けれども神は24節にあるように、彼らが呼びかけるより先にわたしは答え、まだ語りかけている間に聞き届けるとまでいうのだ。母親が大事な子どものことは声に出さなくても分かるように、子どもが言う前に子どもの欲しいものがわかるように、神はあなたが語る前からあなたのことは分かっているという。
そんな神と民とのつながりがあること、それは実は一番大事なことなのだと思う。現実は国の復興も神殿の再建も思うように進まない、目に見える事柄はなかなか解決されない、そんなひっかかりをずっと引きずっている、それは大変辛いことでもある。けれどもそんな目に見える大変なことの中で、目に見えない神とのつながりはしっかりとあるのだと預言者は語っている。そしてそれは何よりも大事なことなのだと思う。それこそが一番大事なことなのだと思う。
見える現実は厳しい。教会の現状も厳しい。人も金も少ない増えない、後継者が育たない、愛がない、、、。一人ひとりの現実も厳しい。年を取ると身体も弱ってくる。いろんな問題が次から次から起こってくる。まるで打ちのめされそうな現実が待っている。それが解決できれば、この問題がなくなれば、過ぎ去ってくれれば何とかなるに違いないと期待する。
けれどもなかなかそう思うようにいかない。神に祈っても願ってもなかなか思い通りにならない。そしてそんな厳しい現実の中で、一体神はどこにいるのか、神は私を見捨てたのか、忘れてしまったのかと思ってしまう。
けれども神はきっと私たちのそんな声も聞いてくれているだろう。そしてそんな私たちの苦しみも、嘆きも、私たちが語る前からきっと分かっているのだ、とイザヤ書は告げているようだ。
苦しみを分かってくれる、受け止めてくれる、これほど嬉しいことはないのではないかと思う。そしてそんな神との目に見えないつながりがあること、それが私たちにとっても実は一番大事なことなのだと思う。目の前の厳しい現実だけに目を奪われるのではなく、目に見えない神との関係をしっかりと見つめていくように、そして神はあなたのことをしっかりと見つめ、あなたの声を、あなたの思いをしっかりと聞いてくれているのだということを預言者は語っている。
自分のことを、自分の思いを分かってくれると言うことはとてもうれしいことだ。そしてそれは案外問題が解決することと同じくらい、あるいはもっと嬉しいことかもしれないと思う。
昔ラジオで聞いた話し。ある人が中学くらいだったか、母親が病気で死んでしまって家族みんな大変になった。その人もつらく悲しかったけれど、妻を亡くしたけれどその分頑張っている父親を心配させないようにつらい顔を見せないでその人も頑張っていた。数年後その人の祖母がぽつりと、あの時はお前も辛かったよね、辛かったけどよく頑張ったよね、というようなことを言った。それを聞いてその人は、自分の気持ちを隠していて誰にも気付いていないと思っていたけれど、ちゃんと分かってくれていたんだと知ってすごくほっとして楽になった、と話していた。
苦しさや辛さを分かってくれること、分かってくれているんだということを知ることってのは実は最高の喜びなのかもしれないと思う。そしてそれが一番の励ましになるように思う。そして一番の励ましになるのだと思う。
見えない神の支え、見えないところで私たちの苦しさも辛さも分かってくれている神の支えを知ることで私たちは慰められ励まされる。そしてそうすることで私たち自身が立ち上がる力が与えられるのだと思う。厳しい現実の中にしっかりと立つ力が与えられる。
神はきっとそんな方法で私たちを支えてくれているのだと思う。奇跡を起こして目に見える世界を何もかも変えてしまうというような方法ではなく、私たち自身を慰め励ますことで私たちをこの厳しい世界の中で生きる者と変えるのだと思う。私たち自身が変われば、結果的に全世界は変わってしまう。後を見つめていた者が前を見るようになれば世界はまるで違って見える、そんな風に私たちが変わることは世界が変わることでもあるのだと思う。
神が私たちの声を聞き、私たちの嘆きを知り、私たちの全てを支えてくれていることを知ること、それは世界を変えることにも等しいことだろう。天と地をもういちど創造するに等しいことだろう。
喜び楽しむ
「その民を喜び楽しむものとして、創造する。」(18節)と言われている。こんな現実の中で、こんな自分なのに喜び楽しむなんてできるのか、と思う。
でも神はその民を喜び楽しむものとして創造すると言っている。喜びなさい、楽しみなさい、そのようにお前を創ったんだから、神はそう言われているようだ。
失敗や挫折、後悔ばかりの自分かもしれないけれど、そしてそんな現実に目を奪われて落ち込んでばかりになりがちだけれど、目に見えない神に、そして神の言葉に目を向けなさいと言われているんじゃないかと思う。そうすれば世界は変わる、そこには新しい世界がある、神はそう言われているのではないか。