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礼拝メッセージより
「すべての民の」 2014年11月16日
聖書:イザヤ書56章1-8節
第3イザヤ
イザヤ書56章から66章までは、第3イザヤと呼ばれ、イスラエルの民が帰還した後のイスラエルの地で活動した何人かの預言者の言葉を集めたものとされているそうだ。今日はその第3イザヤの最初の言葉ということになる。
補囚から解放されイスラエルへ帰還したユダヤ人たちであったが、50年ぶりに帰る故郷は、といっても初めてイスラエルの地を踏む人達の方が多かっただろうけれど、そこはかつてのイスラエルとはだいぶ違っていた。エルサレムの城壁も神殿も壊されていた。そんな中で、それぞれの家庭も、そして社会全体も、あらゆるものを作り直さないといけないような状況だったのだろうと思う。それは大変な、そして疲れることでもあったに違いないと思う。
エルサレムへ帰還した人達は神殿の再建にも取りかかったが、飢饉があったり、サマリア人の妨害があったりして工事も中断したりなどして、完成したのは期間後20年後だった。経済状態もよくならず、ユダヤ人たちの中で争いが起き、民族主義者たちは異邦人を排斥することを訴えていた。
そんな状況の中で活動した預言者たちの言葉が56章からの第3イザヤということのようだ。
先ず言われていることは、1節にある「正義を守り、恵みの業を行え」ということだ。また2節には、安息日を守りそれを汚さない、また悪事に手を付けないように自戒するということだ。それはずっと以前から言われていたことだろう。
しかし3節にはちょっと不思議な言葉がある。「主のもとに集まって来た異邦人は言うな/主はご自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/観よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」
異邦人とはユダヤ民族でない人たち、そしてご自分の民とはユダヤ民族のこと。宦官とは去勢して役人となっている人達のことだ。
申命記23:2-4には、「「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」とある。宦官も異邦人も主の会衆に加わることができないと書かれている。
この時期、神殿の再建を指導した律法学者のエズラや総督のネヘミヤも、外国人と結婚していた者たちを離婚させようとしたり、神の民から追放するように命じていたそうだ。
現代でも社会が落ち着かないと民族主義者が台頭する。外国や外国人がいかにおかしいかということを宣伝して、国の中の問題を目立たないようにさせることがよくある。そしてそんな外国や外国人の悪口を言うことで鬱憤を晴らすなんてことになる。悪口を言うことで、自分達は特別なのだ、自分達こそ正統な国民なのだ、というような気になる。そうして外国人や混血の人達を除け者にしていく。この時代のイスラエルもそんなことになっていたんじゃないかと思う。補囚の地で50年も過ごすと、きっと混血の人達もいただろう。いろんな理由でユダヤ人と共に移住して来た人達もいたんだろうと思う。いろいろな民族の人達がいると、自分達こそ純粋な正統なユダヤ人なんだ、と言い出す人たちが現れても不思議ではないという気がする。自分達の宗教を守るためには、エズラやネヘミヤがしたように、純粋さを求めた方がすっきりするしはっきりもするだろうと思う。
すべての民の
しかし第3イザヤはそれとは全く反対のことを言っている。
宦官も異邦人も、安息日を守り神の契約を守るならば受け入れる、彼らも神の民だ、と言っている。それまでのことを考えると、この言葉はかなり過激な言葉だ。神を信じる者はみな神の民だ、見た目や民族は関係ないということだ。
ユダヤ人だけ、身体に異常のない者だけが神の民だ、と主張していた人達も恐らく意地悪で他の人達を除け者にしていたわけではないのだろうと思う。昔からそうだったんだからとか、申命記にこう書いてあるからというような真面目な理由からそう言っていた人たちが多かったんだろうと思う。真面目にしきたりを守って、真面目に律法を守っていたんだろうと思う。でもそれはやがて律法の字面を守るようなことになってしまいがちだ。そしてそれはバビロン捕囚以前からユダヤ人たちが陥っていた間違いでもあった。
しきたりや字面を守ることに熱心になると、本当に大事なことが見えなくなってしまうように思う。
今の教会でも似たようなことがあるのかもしれないと思う。あるだろうなと思う。面倒な人じゃなくて、自分の期待するような人に来て欲しい、なんて思う気持ちがある。教会で面倒なことを起こしそうな人ではなく、いっぱい献金して助けてくれる人が来て欲しいなんて思う。そんなこと思っているから誰も来ないのかな。
7節に、「わたしの家は、すべての人の祈りの家と呼ばれる」と書かれている。教会も祈ろうとするすべての人の家なのだと思う。すべての人の帰るべき家でありたいと思う。
しかし教会も、聖書に否定的に書かれているからということで、同性愛の人を罪人だと言って排除してきた。聖書をどう読むか、というのは難しい問題だけれど、ここにすべての民の、と書かれていることはもっと大事にしないといけないと思う。
また主の晩餐の時に、今はぶどうを小さな杯で配っている。イエスは皆この杯から飲め、と言われているのでもともとは一つの杯から飲んだんだと思う。今は衛生的なこともあってそうしているのだと思うけれど、日本の教会で別々に配るようになったのは、ある教会に部落の人がいてその人と同じ杯で飲みたくないということになって別々にして、やがてそれが定着したと聞いたことがある。その真偽は定かではないけれど、でもそういう人を差別する気持ちがやっぱり自分の中にもないわけではない。悲しいけれどやっぱりある。
でも神は、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と言われている。誰の邪魔もしてはいけない。なんて言うと自分達が迎えてやる側、神の側にいるなあと思う。この自分こそ迎えてもらう側なんだろうと思う。
ただ神を信じ神に祈る者、それが神の民なのだ。立派になにかを成し遂げる、正しく間違いなく生きる、そうすることで初めて神の民に加えてもらえるのではないということだ。間違いも失敗もするけれども、でも神を信じ神に祈り神に求める者、その人はすべて神の民、神の家の住人なのだ。
この自分を迎えてくれている、、こんな自分なのに迎えてくれているわけだ。そのことを喜び感謝することが先ず第一にすべきことなんだろうと思った。それがなければ何も始まらない、すべてはそこから始まるんじゃないだろうか。