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礼拝メッセージより
「傷によって」 2014年11月9日
聖書:イザヤ書53章1-12節
苦難の僕
この僕とは誰のことなのか、イスラエルのことであるとか、預言者自身の事ではないかとか、あるいはユダヤ人たちをバビロン捕囚から解放したペルシャのキュロス王ではないか、といろいろな説があるそうだ。これはキリストのことではないかという人もいる。もちろんこれを語る預言者が直接イエスのことを、それこそ予言したというわけではなく、当時の誰か、多分当時の指導者のことを語っているのだろうけれど、この苦難の僕の姿はまるでキリストの姿を見事に表しているようでもある。
そして新約聖書にもこの箇所からの引用は多い。
マタイによる福音書には「 8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。 8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。 8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。 8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」
とある。
またペトロの手紙一には、
「 2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。 2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」 2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」
と書かれている。
また使徒言行録8章では、フィリポがエチオピアの宦官に聖書の説明をしてイエスの福音を伝えたことが書かれているが、その時読んでいた聖書はイザヤの53章7-8節であったと書かれている。
この僕が誰であるかというのははっきりしないようだが、少なくともキリスト教会の最初の人たちはこのイザヤ書の言葉を通してイエス・キリストを理解していったようだ。そして実際ここからイエス・キリストのことをよく知ることができる。
逆転
キリストとはどういう方なのか。救い主はどういう方なのか。漠然と強く立派なイメージを持っている人が多いのではないか。凛々しく、格好良く、何にも動じないで、罪も間違いもなくて、いつも正しくて、そんな神々しいイメージを持っているのではないかと思う。私たちのような下々の人間とは随分違い、こんな私たちのようなだらしない人間には近づきがたいような、話しをするのもはばかれるような、挫折とか失敗とか恐れとか煩いとか、そんなものとは全く無縁な方であるようなそんなイメージを持っているのではないか。
私たちは自分の苦しさ、悲しさに押しつぶされそうになっている。病気に苦しみ、いろんな苦難に苦しみ、そして孤独に苦しむ。どうして私だけがこんな病気になってしまうのかと思い、どうして私だけがこんなに辛いことを経験しないといけないのかと思い、どうして誰も私のことを分かってくれないのかと嘆く。
そして神を信じればどんな病気になっても不安になることもなく、どんな辛いことが起こってもそれに立ち向かっていって、誰からも見向きもされなくても悲しむことがないようになるはずである、そうならなければ信じているなんて言えない、そんな風に思っているところがある。
苦しみを乗り越えていくことが立派な信仰者の姿であって、そうやって乗り越えていったところに神が待ってくれている、そうやって乗り越えていく者だけを、神が「お前はよくやった、よく信じた」といって認めてくれる、そして苦しいとか悲しいとか寂しいとかばかり言っている私のような者は神から見放されてしまっているに違いないと思ってしまう。
けれども実はそんな風に、病気や怪我や悩みや寂しさを乗り越えた、そんなものから無縁なところに神がいるわけではない、神は、イエス・キリストはそんなところで私たちを待っていて、早くここまでやってこいと待っているわけではない。イザヤの告げる苦難の僕は多くの痛みを負い病を知っていた、いう。イエス・キリストも痛みを負い病を知っていた。イエス・キリストは私たちが苦難を乗り越えるのを遠くで待っているのではなく、私たちが今病気をし死を恐れている、今苦しい思いをし淋しい思いをしている、ここにいてくれている。悲しみや苦しみを振り払い、乗り越えた先で待っているのではなく、今悲しんでいる、今苦しんでいるここにいてくれている。そして誰よりも私たちのその悲しみや苦しみを分かってくれている。
神を信じているといっても依然として病気をすることもある、いろんな災いにあうこともある、いろんな苦しいことはある、けれどもそれが人生でもあると思う。いろんなことがあるのが人生だ。いろんなことがある人生をしっかりと受け止めていくことが大事なのではないかと思う。神を信じていれば何でも自分の思うように、自分の願い通りになるというわけではない。自分の願い通りになるなんてのは本当はうその人生なのだと思う。
イエス・キリストはその私たちの辛い苦しい人生を共にしてくれているのだと思う。辛さ、苦しさを共に味わってくれているのではないかと思う。
「 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
インターネットで読んだある牧師の説教の中にこんなことが出ていた。彼が神学校を卒業して伝道所の牧師を半年足らずで挫折して失意の内に地元の教会に帰っていたとき、集会の講師として、すごく大きな教会の牧師を招いたそうだ。そして牧師をやめた彼がその牧師を迎えに行き会場まで送ることになったそうだ。そして連れてくる車の中で、いろいろ言葉を交わした後、先生がこう聞いたそうだ。
「ところで君は今何をしているんだい。」
「実は、神学校を卒業して伝道所の牧師をしていましたが、数ヶ月前にやめました。今、母教会に居ます。」
「ふーむ。どうして牧師やめたの。」
彼はしばらく間をおいてこう言ったそうだ。
「……ゆきづまったからです。」
するとその牧師は、はっとしてしっかりと彼の方を見つめ、ゆっくりと言ったそうだ。
「……私はねえ兄弟。……いつも行き詰まっているよ。……いつも。……今やっていられるのは、イエス様のあわれみだけだよ。……」
傷によって
「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(53:5)
苦しむ時も、悲しむ時も、行き詰まる時も、そして絶望する時もイエス・キリストは共にいてくれる。傷を受けている、傷んでいるイエス・キリストが共にいてくれているということなんだろう。共に苦しみ、共に泣いている、そんなイエス・キリストが共にいてくれているのだろう。イエス・キリストはそのように、自分も痛み苦しみつつ、私たちを憐れみ愛してくれているのだ。
イエス・キリストは、私たちの痛みや苦しみや悲しみ、また嘆きや失望やあきらめ、まさにその真ん中にいてくれているのだろう。
私たちはどんな時でも、どんなになってもひとりぼっちではない、ひとりぼっちになることはない。