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礼拝メッセージより
「いつも共に」 2014年11月2日
聖書:イザヤ書42章1-9節
時
紀元前587年にユダヤ人の多くはバビロンへ連れて行かれてしまった。その後バビロニアはペルシャという国に滅ぼされ、紀元前538年にペルシャの王キュロスはバビロンで補囚されていた民に自分の国へ帰ってもよいという許可を出した。ユダヤ人の補囚は約50年間続いた。
主の僕
イザヤ42章の新共同訳聖書の小見出しは「主の僕の召命」となっている。神が主の僕と呼ばれる政治的な指導者を召したということだ。彼はバビロンの地の捕囚の民が祖国に帰還する際の中心人物となる。ところがこの政治的な指導者はこのイザヤ書の中には名前が出てこない。ただ「主の僕」と呼ばれているだけだ。この主の僕については、第2イザヤ、つまりイザヤ書の40章から55章の中には4回出てくる。その最初が今日のところで、まさに「主の僕の召命」の話しになっている。ちなみに、この後の3回の小見出しは、49章にある2回目が、「主の僕の使命」、50章の3回目が「主の僕の忍耐」、52章と53章に出てくる4回目が「主の僕の苦難と死」となっている。
普通ならば政治的な指導者とは権力を持ち、時には民を苦しめたりすることもある。しかしここに登場する主の僕と呼ばれる指導者は、忍耐する者であり、苦難と死を迎える、そんな指導者であると言われる。
今日の42章では、叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して確かなものする、そんな指導者であるという。弱り切って疲れ果てて倒れそうな人を、倒れることなく支える、そして正義を行う、そんな人物であると言われている。
自分達の故郷から遠く離れたバビロンへ補囚され50年にもなり、故郷へ帰るという希望も、ユダヤ人としての誇りも消えかかっていたいのではないかと思う。そんなユダヤ人たちの傷ついた心を折ることはない、暗くなって今にも消えそうな心のともしびを消してしまうことはない、そんな主の僕を、神の僕を見よ、と神はいう。
傷ついている者に対して、疲れ果てて希望を持てない者に対して、神はそんな苦しさや弱さをよく分かる方を送ると言われるのだ。
ユダヤ人達はきっと絶望していた。自分達が間違っていた、そのために国もなくなった。もう希望はないと思っていたのだろう。弱いだらしない自分達はもうどうしようもないと思っていたのだろう。
しかし国が滅ぼされ、バビロンという異国の地にに連れて行かれるという苦しみを通して、ユダヤ人たちは自分達の信仰を顧みた。苦難を通して、失敗を通して自分のことを真剣に反省した。こういうことになったのは自分達が主なる神に従ってこなかったから、神の言葉を真剣に聞いて生きてこなかったからであると分かった。そんな彼らに第二イザヤは彼らに主の僕を立てるという神の約束を告げる。
主の僕は傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこともなく、裁きを導き出して、確かなものとする、という。この裁きとは、ミシュパートという言葉で公義とか道と訳している聖書もあるそうだ。裁きというよりも定めという感じかもしれない。
弱く傷ついた者も傷つき果てることもなく、燃え尽きそうな者も暗くなることはないという。そのために主の僕を立てると神は言うのだ。しかしその僕は強い大きな力を持つ者ではない。力によって周りを制圧するような方ではない。そうではなく、小さく力のない私たちに寄り添う方だ。
この主の僕とは、エズラ記に出てくる、補囚からエルサレムへと帰還する際に第一陣として楽器を携えて帰国したシェシュバツァルのことではないかと言われているそうだ。
シェシュバツァルはペルシャのキュロス王からも信頼されていた人物で、ペルシア帝国に属するユダヤ州の総督に任命された。キュロス王は、バビロニア人がエルサレム神殿から略奪した品々をユダヤ人に返したので、シェシュバツァルはエルサレムに帰還するときにこれらの品々も持参した。
エルサレムについたシェシュバツァルはキュロス王に命じられたとおり、かつて神殿にあった品々をそこに戻し、かつ神殿の基礎を据えた。しかし、この神殿工事は周辺に住んでいた他民族の妨害もあって、途中で中断されてしまった。その後シェシュバツァルはいつの間にかいなくなってしまい、暗殺されたのではないかとも考えられるそうだ。
イエス・キリスト
今日のイザヤ書が新約聖書にも出てくる。
マタイによる福音書12章15-21節に出てくる。
「12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、12:16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。 12:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。 12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。 12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
マタイはイザヤ書の告げる主の僕こそイエスだと告げている。イザヤ書自身はシェシュバツァルのことを伝えているのだろうが、イザヤ書の告げる主の僕の有り様はマタイが言うようにまさにイエスの姿だった。
イエスは何の権力も持っていなかった。内に秘めた力は持っていたのだろうが、それを振り回すこともなかった。福音書の伝えるイエスは弱く貧しく無力だ。しかしこのイエスは苦しみ、傷つき、倒れている者に、どこまでも寄り添う、そんな方だった。まさに傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない、そんな方だった。だからこそマタイは、イザヤ書の告げる主の僕の有り様に、イエスの姿を見ていたのだろう。
神に対して、力を奮って、権力を行使して、私たちの願う奇跡を起こして欲しいと思う。あるいは悪い者から、病気や災害から強い力を持って自分たちを守って欲しいと祈る。またこんな弱い駄目な自分を、強く立派な人間に変えて欲しいと願う。神にはそんな風に強い力を発揮して欲しいと思う。それでこそ神だという気持ちもある。
でもイエスは強く神々しい姿ではなく、弱く貧しい姿で私たちの前に立っているようだ。そして私たちに対して強い力を振り回すのではなくそっと寄り添っている、高いところから命令するのではなく私たちの悲しみも苦しみも痛みも聞いてくれ共感してくれる、そんな仕方で私たちと共にいてくれているようだ。いつでも一緒にいてくれること、それこそが私たちの一番の支えなのだと思う。
ハーモニー(ネタバレ、注意)
韓国の女子刑務所を舞台にしたの「ハーモニー」という実話を元にしているというを録画してテレビで何回も観ている。実話を元にした映画だそうだけれど、刑務所の中で合唱団を作るという話しだ。指揮者は、自分の親友と浮気した夫の二人を一緒に轢き殺してしまった死刑囚だった。小学生位だった娘はその後死刑囚の子供として苦労して育ったため、母親を嫌い続けていた。
死刑執行する前日、それを知らされていない母親は娘と面会し一夜を共に過ごす。母親はやっと娘が会ってくれたことに喜び、同室の収容者からも冷やかされるほどだった。しかし次の日、看守がまた母親を呼びに来る。処刑だと悟った母親は突然厳しい顔になりながら、ロザリオを握りしめ机の上を片付け部屋を出る。看守に両側を支えられ、収容者たちの歌に送られ、振り返り微笑むというのが最後のシーンだ。
自分が死刑になり今から処刑されると分かったとしたらどうなるだろうかと想像する。こんな時頼れるのは神しかない、と思う。もちろん神が助け出してくれるわけではない。しかしそこで祈ることができる、すがることができる相手を持っているということはどれほど幸せなことかと思った。見えないけれど、そこに神がいてくれていることを知っている、信じているということはとても幸せなことだと思った。
あなたがどんなに弱くて、小さくても、邪悪でも、罪深くても、私はあなたと共にいる。神はそう言われているのだと思う。とてもうれしいことだ。