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礼拝メッセージより
「希望」 2014年10月26日
聖書:イザヤ書40章1-11節
第2イザヤ
イザヤ書は66章まであるが、イザヤの言葉は39章までだそうだ。39章にヒゼキヤ王という人の話しが出てくるが、この人は紀元前700年頃の人だ。しかし40章から55章まではバビロン捕囚時代の後半に入ったころの話しになっていて、その前とは100年以上経ってからの話し、という風に時代背景が違う。そこで40章から55章までを便宜的に第2イザヤ、56章から66章までがまた違う時代の話しなので第3イザヤという。
つまり40章は第2イザヤの最初ということになる。
時
時代は紀元前550年〜540年頃。バビロンに補囚されてから40年がたった頃の話しだそうだ。国が滅ぼされ国の主だった人達は敵国のバビロンへ連れて行かれ、40年間異国の地で過ごしていた。ユダ王国を滅ぼした時の王ネブカドネザルは死に、隣のペルシャが強くなってバビロニアを狙うようになっていた。
特に奴隷の生活をしていたわけではなかったようだが、40年もたてばすっかりそこでの生活に染まってしまうようなことになっていたのではないかと思う。自分たちがことさらユダヤ人であるということも意識しないような、できないような時間を過ごしていたのだろう。バビロンにはマルドゥクという神があって、その神を拝むような行事を目にすることも多かったことだろう。ただただ時の権力に支配されて流されていくしかない、無気力な時を過ごしていたのではないかと思う。今の状態がいつまで続くのかも分からない、けれどもバビロンに反抗してエルサレムに帰る力もない、そんな希望も持てない、自分たちの力では何もできないというような無力感を持っていた、現状をうち破る力も元気もないようなそんな時代だったようだ。
慰めよ
ところがそんな時代にひとりの無名の預言者が立てられる。そして神の言葉を取り次いた。それが第2イザヤと呼ばれる預言者だ。
私の民を慰めよ、苦役の時はもう終わる、咎は償われ、罪は倍する報いを受けた、というのだ。罪の倍の報いを主の報いを受けた、と言っている。実際にはまだまだ苦しい中にいる。希望のない中にいる。けれどももうすでに報いを受けた、主の御手から報いを受けている、預かっているということのようだ。そしてその報いはもうすぐあなた達の元へと届けられるということのようだ。苦しみの時はやがて終わり、新しい時が時代がやってくるのだという。
草
けれども人はなかなかその神の言葉を受け入れることもできない。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。」(40:6-7)
主の風に吹き付けられたから枯れてしまい、しぼんでしまったのだ、と言うのだ。
どうせ私はダメな人間です、何もできない人間ですと思う、罪深い人間です、どれもこれも私が悪かったからその罰なんですと思うことがある。そしてそんな思いに縛られてしまうことが案外多いのかもしれない。どうせ自分はないもできないと思うことで、自分にできることもできず、自分に語りかけてくれている言葉も聞けなくなってしまうことも多い。
けれども神は語りかける。
「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:8)
神の言葉はとこしえに立つ、というのだ。確かに人間は弱く罪深い者だ。何かあるとすぐにしおれて枯れてしまう。けれども神の言葉はとこしえに立つ、というのだ。そしてその神が、
「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(40:10-11)
というのだ。
12節以下では神の大きさが書かれている。神が世界を創った、神が全てを支配しておられるということが書かれている。それなのにどうしてお前達は神を小さなものと思うのか、無力なものだと考えるのか、ということなのだろう。
神は全世界のあらゆるものを支配している、どこかの地方の片隅にいるわけではない。私たちのことをいつもは放っておいて、一所懸命に祈った時だけ助けにくる、というわけではない。
いつもいつも私たちのことを支えてくれている。私たちがそう思っていなくても、気がついていなくても、いつも見守り支えてくれているというのだ。
しかし勿論目に見える現実は厳しいものだった。一体どこに神がいるのか、神は見放したのかと思うようなことが続いていた。40年間補囚され、それ以前から苦しいことの連続である。神はどこにいったのかと思うような現実が続いていた。
けれども神は決してどこかにいっていたわけでも、知らん顔をしていたわけではない。神はいつもどんな時も世界の全てを支えているのだ。神はそういっているようだ。羊飼いが小羊を守るように、小羊が気づいている時も気づいていない時も神は私たちをしっかりと見守ってくれている。そのことをこの預言者は語りかけた。神はしっかりと支えてくれている、だから希望を持って生きよう、神に支えられていることを知って生き生きと生きようという。
希望
今日はなんだかうちの教会に向けて語られているかのような気がしている。というよりも僕自身に対して語られているかのようだ。
礼拝の人数も少ないなったし、会計も毎年大変だし、かといってそれを打開する知恵も力もないし、日曜日になるとそんな現実をつきつけられるようで苦しい気持ちが強い。喜びを持って礼拝を迎える、なんて気持ちとは程遠いなあとこのごろよく思う。諦めの境地といった感じ。
でも何だか今日の聖書は、諦めるな、諦めるな、希望を持てと言われているようだ。
希望ってどこにあるのだろうか。自分が何かすごいことができるから希望があるのか。人に自慢できることができて初めて希望を持てるのか。人より優れていると思うことで元気になるという面が僕には多分にある。そして逆に劣っていると思うと途端に元気をなくしてしまう。教会の人数とか予算の額とか、そんな目に見えるものでいつも誰かと競争しているようだ。だいたいいつも負けて駄目な自分を責めて元気も希望もなくしてしまっている。
「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:8)
口語訳だと、「草は枯れ、花はしぼむ。しかしわれわれの神の言葉は/とこしえに変わることはない。」だった。
口語訳の方が良かった気がする。「しかし」というところを強く読みたい。
自分自身、自分の能力、自分の成果に希望を持つとすると、自分が無力なとき、衰えてきたとき、失敗したとき、希望は持てなくなってしまう。
しかし神に、神の言葉に希望を持つならば、私たちはとこしえに希望を持つことができる。しかしそれは見えないものを見つめるということであり大変な事でもある。
第2イザヤと呼ばれるこの無名の預言者はこの言葉をどこでどんな風に語ったのだろうか。大勢の群衆の前で、さあ語ってくれと待ち構えているところで語ったわけではないような気がする。いい話をしてくれてありがとうと言われるようなところで語ったわけでもないんじゃないかと思う。そんなこと言ったってどこに希望があるんだよ、神の働きがどこにあるんだよ、と言われるようなところで語ったんじゃないかなと思う。俺たちはもう見捨てられたんだよ、と言われながら語ったんじゃないかと思う。だからこそ「力を振るって声をあげよ」「声をあげよ、恐れるな」(40:9)と言われているのだろう。そんな中で語り続けるのも大変だっただろうなと思う。
私がついている、私が道を備える、そう言われる神に希望をおいてこの預言者は語り続けていったのだろう。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(40:1)と言われる神の声を自分も聞き、みんなにも伝えていったのだろう。
教会を大きくしないといけない、小さく少ないのは駄目なんだ、というような気持ちが強いけれど、大きいとか小さいとかよりも、慰めや希望を語り伝えることこそが教会の使命なんだろうなと思った。
もちろんこの言葉を聞いてすぐに元気になったり、すぐに希望に満ちあふれるというわけではないだろう。現実の厳しさはそうやすやすと変わりはしない。けれども厳しい現実の中でも、この神の言葉はすこしずつ沁みてくるのだろうと思う。神の言葉ってのはじわじわと心の奥底に響いてくるものじゃないかと思う。
「しかしわれわれの神の言葉は/とこしえに変わることはない」、ここに希望を持って生きたいと思う。