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礼拝メッセージより
「起死回生」 2014年10月19日
聖書:イザヤ書11章1-10節
エッサイ
イザヤに示された幻がここに告げられているのだろう。あるいはイザヤの待ち望む夢なのかもしれない。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」(11:1)という言葉で真っ先に思い出すのは、クリスマスの時に歌う新生讃美歌153番の「エッサイの根より 生い出でたる」という歌詞だ。あるいは149番の「エッサイよりいでし主 悪魔のてだてを」というのもある。
このエッサイというのはダビデの父親の名前だ。かつてイスラエルを強い大きな国にまとめあげた偉大な王として名を馳せていた、誰もがよく知っている王だ。エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、ということは、ダビデのような偉大な王が再び登場するという期待を持っているということなんだろう。
しかし同時に、株から芽が出る、根から若枝が育つ、ということは、大きく育った木が切り倒されてしまい、株だけが残されるということをも暗示しているのだろう。
イザヤの時代、北方にあるアッシリアという国の脅威にさらされ、周りの国々と共に混乱していた。まさに切り株だけを残して切り倒されかねない状況であった。イザヤにとっては切り株だけが残される状況が見えているような、そんな危機的状況だったのだろう。
希望
しかしイザヤはそこにも残されている希望があることを告げている。切り株から芽が出る、根から若枝が育つ、と言うのだ。イザヤはエッサイの株から、つまりダビデ王家の家系からまたすぐれた王が登場するという思いでもあったようで、イザヤはヒゼキヤ王こそがこの若枝ではないかと期待を持っていたようだ。
イザヤの待ち望む王は、2節以下にあるように主を畏れ、正義と真実によって公平に裁きを行い、貧しく弱い者たちのことを守る、そんな王だ。そして狼と小羊、豹と子山羊、子牛と若獅子が仲良くして、熊もライオンも草を食べ、蛇や蝮も害を与えることはない、そんな世界がやってくる、なんてことを言っている。
勿論このことば通りの世界になるということではなく、今までとは全く違う世界、これまでの争いに満ちたのとは全く違う社会になる、という希望を語っているのだろう。
「その日がくれば」と告げる、新しい王の治める日がきっとやってくるとイザヤは語っている。
イザヤが告げる新しい国とは、強くなって外国の脅威にさらされない、あるいは外国を倒し大きくなる、そんな強い大きな国になるというようなものではない。ここで語られているのは、王が神から与えられた正義と公平の霊によって正しい裁きをし、貧しい者や弱い者を守る、争いや戦いのない、そんな国だと言っているようだ。
当時の社会は外国からの脅威にさらされて混乱している時代でもあったけれど、イザヤ書の1章で言われているように、本当の問題は外側にあるのではなく内側にあるということなんだろう。つまり外国からの脅威があることが本当の問題ではなく、国の中に不正や搾取があること、それが問題なんだということだろう。悪を行い善を行わないこと、具体的には孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護しないというようなこと、それが問題だったのだ。だから、その問題を放っておいてどれほど献げ物をしても、祭りを行っても、祈っても、そんなものを神は受け付けない、聞かないと言われているのだ。
起死回生
イザヤはそんな根本の問題を解決する新しい王を期待した、そんな王がやってくるという神から示された希望を告げたということなんだろうと思う。
イザヤは当初はヒゼキヤ王がエッサイの根から出た若枝であると期待したようだが、後にヒゼキヤを批判したことが書かれているそうで、ヒゼキヤではなかったと思うようになったらしい。
キリスト教会ではイエスこそがこの若枝だと考えるようになった。イザヤがイエスのことを意識して告げたわけではないと思うけれど、イザヤの語る若枝の有り様はイエスにぴったり沿っていると思う。
イエスは社会からつまはじきされている者、貧しく小さく苦しめられている者、差別されさげすまれている者、そしてこんな自分は駄目な人間なんだと自分で自分を否定している者、自分には価値がないと思っている、そんな人達のところへ会いに行かれた。そしてあなたが大事だ、あなたが大切だ、あなたを愛していると告げた。まさにイザヤの告げる若枝の姿そのものだと思う。
国を強くする王ではない、しかし本当に大事なもの、一番大事なものを私たちに伝える、イエスはそんなエッサイの若枝なのだ、とクリスマスには歌っている。
大事
イザヤの時代の問題は国の外にではなく内側にあった。本当の問題は外国からの脅威があることではなく、弱い立場の人を大事にする気持ちがないこと、言わば愛がないこと、思いやりがないこと、それが問題だった。
私たちの教会も一番の問題は愛があるかどうかなのではないかと思った。新しい人が来ないとか続かないとかいうことばかり気にしている。そんな風に外の人が来るか来ないかということ外のことばかりを気にして、誰も来ないと思って元気をなくしている。でも、教会に愛があるのかどうか、思いやりがあるのかどうか、そっちの方が余程問題なんだ、本当に大事なのは内側だぞと言われているような気がしている。
ついつい来ない人や少なくなった人の数ばかり数えてしまうけれど、一緒に礼拝している人、また礼拝に来てなくても一緒に聖書の言葉を聞く人のこと、そんな人達のことを大事にしてないんじゃないか、愛してないんじゃないか、そう言われているような気がしている。
その日が来れば 国々はそれを求めて集う、なんて言われている。その日には起死回生の出来事が起こるのだろうか。教会の人数が急に増えればいいなと思ったりするけれど、どうなるかわからない。増えようと増えまいが、弱く小さい人達のことを大事にする、互いを愛し互いにいわたる、そこを大事にしていきたいと思う。
そこから起死回生が始まるように思う。目に見える変化はないかもしれない。でも目に見えない起死回生がそこから始まるような気がする。
週報に載せた言葉に励まされている。
「決してあきらめないでください。
そこが流れが変わる場所であり、時なのだから。」
(ハリエット・ビーチャー・ストウ/作家)
Never give up, for that is just the place and time that the tide will turn.
- Harriet Beecher Stowe