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礼拝メッセージより
「一緒に生きる」 2014年10月12日
聖書:イザヤ書1章10-20節
青色LED
最近テレビでは青色発光ダイオードを造った人達がノーベル賞をもらったと大騒ぎしていた。そしてその中の一人が、原動力は怒りだったと言ったということで、これまた騒いでいた。
これはラジオで聞いた話しだけれど、この人が青色LEDを発明したときに嬉しかったことは、これで信号機を交換する手間が少なくなって済むことだと言ったいたそうだ。信号機のランプは切れてしまうと困るのでランプの寿命が来るよりも随分早く交換していたそうだ。LEDは寿命がすごく長いので交換する頻度が少なくなるということだった。実はこのランプの交換をする工事をほとんどすべての都道府県で警察が天下りしている企業に、かなり高いお金で発注していていたそうだ。結局それは税金で払っているわけだ。それで青色LEDを発明したことで余計な税金を少しでも減らせることができることが嬉しかったそうだ。これが怒りが原動力だと言った理由の一つでもあるそうだ。
権力を持つとうまいこと金儲けをするシステムを作り、そんな利権を守ろうとするというのは世の常なのかもしれないと思う。それは旧約聖書の時代からもそうだったようだ。
当時
当時イザヤのいた南ユダ王国は外国からの脅威に国が揺れているような時代だった。でも国内では腐敗がはびこり賄賂が横行していたようだ。神に選ばれた民という意識を持っていたはずなのに、神を忘れ栄華に酔っていたらしい。弱い立場の人たちのことを配慮せず、金持ちは朝から酒を飲み、自分だけ、自分たち仲間だけのことを考えていた時代だったようだ。
1章23節には「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。」と書かれている。
今も権力者は自分の利権を守ることに一所懸命のようだが、この時代でもそうだったのだろう。
形だけの儀式
宗教的には当時の人たちは儀式を守ることを大事にしていたようだ。献げ物も一所懸命にしていたらしい。本来献げ物は、それによって自分の罪を赦してもらい神と人との関係を正常に保つためのものだ。その献げ物を決められたように行うことによって自分達は正しいことをしている、これで神との関係は保たれる、神は自分達のことを顧みてくれると思っていたのだろう。
旧約聖書の律法には献げ物についてどういう風にするか事細かに書かれていて、そのとおりにしていれば大丈夫と思っていただろう。
ところが11-13節にあるように、そんな献げ物を神は受け付けないと言われている。当時の人々は神が自分たちに対して恵みを与えられたこと、神の大いなる業を見せて下さったことを記念して祭りを行っていたが、13-14節にあるようにそんなものは耐えられない憎んでいるなんて言われ、さらに15節にあるように祈っても聞かない、なんて言われている。
献げ物も受け付けない、祭りも憎む、祈りも聞かない、神にそう言われてしまってはもうどうしようもない。もうとり返しのつかない状態のようだ。
片思いをしている人に、相手にしてもらおうと必死にいろんなことをしているのに全く拒否され相手にしてくれないどころか嫌われているかのようだ。
形と中身
神を信じるということは、神に従うということはどういうことか。
神に従うとか神の声に従うというと、儀式とかをいろいろな決まった形通りに行うこと、そしてひたすら天を見上げて主よ主よということのように思うことがあるのではないか。
しかしイザヤを通して語られているのは、ただ神さま神さまと言っていればいいというものではない、ただ決められた祭り、決まられた儀式を滞りなくしておけばそれで合格というようなものではないということだ。
新約聖書を見るとイエスも同じようなことを言ったことが書かれている。
ルカ6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」
マタイ7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
どうすれば
ではどうすればいいのか。一体何をすることが神に従うことなのか。
それが15節後半から17節に書かれている。「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。」
ひたすら天を見上げることではなく、横を見て孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ、と言われるのだ。
そういう者たちのことを放っておいて、ただ天を見上げて祈っても神は聞かれない。虐げられている者たちを顧みないことは神の御心ではないということだ。
隣人
聖書は、神を愛し隣人を愛するようにと繰り返し伝えている。見えない神をどうやって愛するのか。どうやったら愛せるのか。それこそ、ただ主よ主よ、と言っていれば神を愛することになる、なんてことではないのだろう。どうやらそんなことを神は求めてはいないようだ。そうではなく隣人を愛し大事にすることを神は求めている。傷つき苦しんでいる者と大事にし大切にすること、そんな人達と一緒に生きること、神はそれを求めているようだ。
私たちの教会にも苦しんでいる者や悲しんでいる者たちがいる。いろんな重荷を負いつつ一緒に礼拝している。そんなひとりひとりを大事にすること、それはただ親切でそうしましょうということではなく、それこそが神を信じること、神に従うことだ、と言われているようだ。
この社会の中にも苦しんでいる人達が大勢いる。その人達のことを大事にしなさいと神は言われているようだ。
実は私たちは、隣人を愛することを通して、神を愛することが出来るのかもしれない。隣人を愛するということは大変なことだ。目を瞑って、主よ主よ愛していますと言う方がよっぽど簡単かもしれない。目に見える現実の隣人を愛するということはとても大変でとても面倒なことだ。でもそうやって目に見える隣人を愛することを通して、初めて目に見えない神を愛することができる、と言われているような気がする。きっとそれはとても面倒なことだ。けれどもイザヤ書を見ると、神はそのことを求めているようだ。
一緒に生きる
神を信じるということはそんな神の声を聞いていくことだろう。ただ信じていますということではなく、神が私たちに何を期待しているかということを聞き、その声に従うこと、それが神を信じるということなんだろう。
祈りとは、その神の声を聞いていくことなんだろうと思う。祈る時は、あれをしてください、これを与えて下さい、と自分の願いを神に伝えることが多い。でも逆に神の意志を聞くことこそが祈りなのかもしれないと思う。
隣人と共に生きる、隣人同士大事にしあい愛し合い一緒に生きるように、神はそのことを求めている。きっとそこには大きな喜びがあるのだろう。一緒に生きるところに神がおられるような気がする。
最近お金のことや自分のことばかり心配して、隣人のこと大事にしてないなあ、だから喜びがないのかな。駄目だなあ。主よ、憐れみ給え。