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礼拝メッセージより
「神と共に」 2014年9月28日
聖書:創世記49章28-33節
帰巣本能
鮭は生まれた川に戻ってくるという。人間は生まれたところへ戻ろうとするんだろうか。
家族
家族だから仲がいいのが当たり前、夫婦だから仲がいいのが当たり前、というようなことを言う人もいるけれど、実際にはそうとも限らない。人間が集まればいろんな軋轢も生まれる方が当たり前なんだろう。
ヤコブの家族も、祖父であるアブラハムの時代からいびつな関係が続いている。
ヤコブは双子の兄エサウを騙して祝福を横取りしたことから伯父ラバンの下へ逃亡した。伯父にはいいように使われたりもしたが、そこで伯父の娘レアとラケルと結婚することになった。しかしレアとラケルの確執もあり、彼女たちの奴隷も巻き込んで結果的に12人の息子を持つことになった。
20年後勇気を振り絞ってふるさとへ帰り無事にエサウとも再会できた。そこから家族仲良く暮らせれば良かったのだがそうはいかなかった。ヤコブはもともと自分が好きで結婚したかったラケルにやっと産まれたヨセフを溺愛して、そんなことをするから当然兄弟たちの間で確執が起こってしまう。12人の息子たちには4人の母親がいたわけで、それでなくてもいろんな問題が起こるような状況であるのに、そこで父親が独りだけを別格に扱ってしまったことで尚更火に油を注ぐようなことになってしまい、兄たちの策略によりヨセフは結局はエジプトへ売られてて行く。そしてヨセフが死んだと聞かされたヤコブは悲しみに暮れるというようになる。
しかしヨセフはエジプトで才能を発揮し国のナンバー2の地位に就く。そして飢饉が起こったことからエジプトへ食料を求めに来た兄たちと再会し、ヤコブもエジプトへ招きそこで暮らすことになった。
そして死を迎えることになったヤコブは息子たちに、自分をマクペラの畑にある洞窟に葬ってほしいと告げる。かつてアブラハムが買い取り、ヤコブの祖父であるアブラハムと祖母のサラ、また父のイサクと母リベカ、そして自分の妻のひとりレアも葬られている洞穴に一緒に葬ってほしいということだ。
50章を見ると、ヨセフは自分の侍医にヤコブのなきがらに防腐処理を命じた。医者たちは40日間かけて処置をしたと書かれている。要するにミイラにしたということらしい。遺体をエジプトからマクペラの畑にある洞窟に運ぶには何日もかかるためミイラにする必要があったのだろう。
波瀾万丈のヤコブの人生がここで終わりを迎えた。兄から逃げてふるさとを離れ、一度は戻って来たけれど今度は飢饉が起こったことや、そこに息子であるヨセフがいたことからエジプトへ移住した。そこで死んだが遺体はまた故郷へ帰ることになった。
列
ヤコブは何でマクペラの洞穴に埋葬してほしいと願ったのだろうか。祖父母や父母と同じ所にいたいという気持ちはどういうものなんだろうか。故郷を思う気持ちなんだろうか。
僕にはどこに葬られたいという気持ちは今の所ない。お墓のコマーシャルで、一緒に入ろうというようなのがあるけれど、死後も遺体や遺骨のある場所に自分もいるのだろうか。僕には遺骨がある場所に死後も自分がいるという気持ちがない。なので死後自分の遺骨がどこにあろうと、どこに葬られようと全然構わないという気持ちだ。だからどこに葬られたいという気持ちがわからない。
そもそも人間の死後はどうなるんだろうか。どこにいるんだろうか。よくわからない。生きている間は自分の気持ちとか思いとか、それは魂というようなものなのかもしれないけれど、それは自分の体と同じ所というか身体の中というか身体と一緒にあると思う。死んだ後も同じように遺体や遺骨と一緒にあるんだろうか。それとも死ねば遺体や遺骨とは別々になるのだろうか。あるいは魂というようなものは死ねばなくなるのだろうか。
旧約聖書には人が死後どうなるというようなことは書かれていないようだ。ヤコブも息を引き取り、先祖の列に加えられたとしか書かれていない。列に加えられたというのはどういうことなんだろうか。列に加えられたというと、遺体が並んで横たわっているような印象がある。死ぬということはそんな先祖の並びに加わることなんだろうか。そしてヤコブもその並びに加わるために同じ墓に葬られることを望んだんだろうか。
居場所
面白いことにエジプトでナンバー2の偉い地位に就いていたヤコブの息子であるヨセフも、自分の骨を約束の地へ持って行ってほしいと願ったと書かれている。
ヤコブもヨセフもエジプトというのは自分の土地ではないという意識が強いのだろうか。そこは約束の地ではない、本来自分たちがいるべき場所ではないという意識が強いんだろうと思う。約束の地こそ自分達のいるべきところだと思っていたんだろう。そして約束の地へ帰るというのは神のもとへ帰るという気持ちなのかなと思えてきた。
死後どうなるかはわからないけれど、死後も神と共にいたい、神の手の中にいたい、自分の居場所は神の手の中なのだ、そんな思いがあるから、神の待っている土地である約束された土地へ帰りたいという思いになったのではないかと思う。
神と共に
聖書にはアブラハム、イサク、ヤコブの神という言われ方をすることもあり、アブラハム一族は信仰深い立派な家族のようなイメージを持っていた。けれど実際に聖書に書かれているのは全然立派な家族ではない。夫婦の間でも親子の間でも兄弟の間でもいろんな軋轢や確執がある。自分勝手で傲慢な人間と言った方があっていると思う。家族の中で騙したり騙されたり、競い合ったり、子供の一人だけを偏愛したりしている。創世記にはそんなどろどろした人間の物語でもあるようだ。それが人間の本質でもあるのだろう。
でもそんなアブラハム一族も先祖の列に加えられている。創世記はそんな人間も神の手の中で、神と共に生きてきたということを伝えているようだ。悩みつつ苦しみつつ苦悶しつつ、でもそこで祈る、私たちの神はそんな人間と共にいる、そんなありのままの人間と共にいる、そのことを伝えているのだろうと思う。