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礼拝メッセージより
「抱擁」 2014年9月21日
聖書:創世記33章1-20節
その日
ついにその日がやってきた。ヤコブにとっては生涯で一番重い朝だったんじゃないかと思う。
不安
父のイサクと兄のエサウを騙して祝福を横取りしたヤコブは、母リベカの言うように母の兄、ヤコブから見るとおじとなるラバンの所へ逃げていくことになった。表向きは妻を迎えるためということだったが、実際は兄のエサウが怒って殺されかねないために遠くへ逃げ延びていくということだった。
そして逃げる途中に、神から「あなたの子孫は砂粒のように多くなる、わたしはあなたと共にいる、あなたがどこへ行ってもわたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る」と告げられる夢を見たことが28章に書かれている。
祝福を横取りするという作戦はうまくいったけれども、そのために兄の恨みを買ってしまい、母の故郷ではあるけれども見知らぬ土地に逃げていかないといけないという不安を抱えていた時に見た夢だったのでヤコブはとてもうれしくなったようだ。
しかしこの地に連れ帰る、という神の約束から実際に帰るまでは20年かかった。父と兄をだまして祝福を横取りしたヤコブだったけれど、逃げていった先では、おじのラバンに騙されてしまう。ラバンの娘の妹を好きになり、妹と結婚するために7年間働くことになる。ところが7年後に好きではなかった姉の方と先に結婚させられてしまうことになる。そして妹と結婚してもいいが、もう7年働けと言われて、そのために結局は20年間も働かされる羽目になる。
そんな調子で何事もおじのラバンにいいように使われてきたヤコブだったが、とうとう我慢の限界がやってきて故郷へ帰ろうと決心する。神から故郷へ帰れと告げられたとも書かれている。きっとさんざん迷ってついに決心したのだろう。
しかし故郷へ帰るのはいいけれども、帰るからには兄のエサウに会わねばならない。20年ぶりの再会だ。ヤコブは不安で不安でたまらない。兄がどんな気持ちでいるのかまるでわからない。
そこで先に使いを出した。ところがエサウが400人の者を引き連れてこちらに向かってきたという知らせを聞いて、自分に攻撃をしかけてくるのではないかと余計に不安になってしまう。そこで家の者も家畜も二つに分けて、一つを攻撃されても半分は残るようにした、なんてことも書かれている。
故郷へ帰るしかない、しかしそこには自分がだましたエサウがいる、不安で不安でたまらないヤコブは必死に祈った。32章にその祈りが書かれている。「兄エサウの手から救って下さい、わたしは兄が恐ろしい」と祈っている。そして一晩中神と格闘したことも書かれている。これはきっと一晩中格闘して祈ったということなんだろうと思う。祈ったらそれで不安がなくなったというわけではなく、祈っても祈っても不安で不安で、でも祈るしかなくてそのまま朝がやってきた、ということなんだろうと思う。
そしてついにエサウと会う、その日がやってきた。
エサウ
ヤコブがエサウの下から逃げ出して20年経っていた。その間ヤコブはエサウが赦してくれるかどうかわからないでいた。エサウが自分のことを赦してくれているという情報でもあれば不安もなくなるのだろうが、そんな情報はない。あるいは赦しているという噂があったとしても、そう簡単には信じられなかっただろうと思う。赦されるのか、受け入れてもらえるのか、それともまだ赦していないのか、やはり自分が直接会って確かめるまでは分からない、人の話しを聞いたくらいでは信じられない、そんな思いだったのではないかと思う。
だからおみやげもたくさん持ってきた。何とかして赦してもらおう、何とかして直接会って赦してもらおうと思っているようだ。仮に赦してくれていたとしても、少しでも機嫌良くなってもらおう、自分に対する評価を少しでも上げておこうという気持ちがあったのだろう。
ヤコブは兄を騙したという負い目に20年間ずっと苦しんできたということだろう。家族から離れてそれなりにうまくいっていた。伯父にだまされて好きでもない姉のレアとも結婚させられてしまった。結局姉妹二人を妻としたけれども、妹のラケルと姉のレアとの確執もあった。しかし財産も順調に増えていた。伯父の元にいる間はそれなりにうまくいき財産も増えてきた。しかしエサウを騙したため、そのことでエサウを怒らせてしまった。命を狙うほどに怒らせてしまった。それはエサウをだました側のヤコブがずっと持ち続けてきた重荷だったのだろう。エサウからはきっと赦されることはないだろうという思いをヤコブはずっと持ち続けてきた。だから伯父にだまされても簡単に故郷へ帰ろうという気持ちにはなれなかったのだろう。ヤコブはそんな重荷を20年間ずっと持ったままだった。
ヤコブはエサウに対して何度も何度も頭を下げる。そしてエサウをご主人様と言い、自分のことを僕、と何度も何度も語る。エサウがヤコブからの贈り物を、自分は何でも持っているから必要ないと言ったけれども、受け取って貰えないと自分の気持ちが済まない、とでも言うように半分無理矢理に受け取らせている。そしてエサウが一緒に行こうと言うことに対しても、子ども達は弱いだの家畜の世話をしないといけないだのと、やんわりとそれを断ってエサウを先に返している。じゃあ、私の共の者を残しておこう、というエサウの申し出も断っている。
ヤコブは自分の贈り物をエサウに受け取らせた、けれどもエサウからの申し出は全部断っている。エサウはヤコブを赦していた。もうすでに赦していた。そしてヤコブを気遣っている。しかしヤコブはエサウのそんな気遣いを受け取ることができなかったのだろう。
ヤコブはエサウを先に帰らせ、後からエサウの住むセイルへ行くと言いつつ結局そこへは行っていないようだ。
不安で仕方なかった兄との再会はうまくいったように見える。何事も問題がなく再会を果たすことができた。これで心おきなく故郷で生活できる、ような気がするけれど、でもヤコブはその後も過去の重荷ををずっと引き摺って生きていたようだ。
エサウは過去のことはきれいに水に流しているかのように見える。でもヤコブはできないでいるようだ。だからヤコブはエサウのもとへは行かなかった、行けなかったんだろう。騙された側は水に流すことはできても、騙した方が流せないということかもしれない。
案外エサウはそんなヤコブの気持ちが分かったから、ヤコブからの贈り物も受け取り、自分と一緒に帰るようにと無理強いすることもなく、先に一人で帰っていったのかもしれないと思う。
エサウは偉大だなあと思う。エサウは結局は自分の申し出を全部断わられたけれど、また後から自分の所へ来ると言っておきながら来ない、そんなヤコブに対しても静かに見守っていたんじゃないかと思う。
そんなエサウの見守りがあったからこそ、ヤコブは故郷での新たな生活を始めることができたわけだ。
抱擁
33:4「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」このエサウの様子は、新約聖書に出てくる放蕩息子を迎える父親のようだと言っている人がいた。まさにそんな感じだなと思う。
エサウは全面的にヤコブを受け入れているようだ。けれどもヤコブはそのことを素直に受け止められない。それは神が私たちを全面的に受け入れてくれることを素直に受け止められない私たちの姿にそっくりだと思う。
兄上のお顔は神の御顔のように見えますと言いつつ、実際にそう思う気持ちもあったのかもしれないけれど、でもかつての自分の悪行を兄がすっかり赦すはずがないと思っているヤコブと同じように、神が自分を愛し赦してくれていると言いつつ、私たちもこんな自分を神が無条件に愛してくれるはずがない、大切に思ってくれるはずがない、全面的に受け止めてくれるはずがない、とどこか思っているのではないか。ヤコブは結局はエサウの好意、赦しを受け止めることをしなかった。そしてそのために過去の重荷、負い目を背負ったままその後の生涯を生きていくことになったのだろうと思う。
私たちは神の好意、愛、赦し、それを受け止めているのだろうか。お前が大切だと、お前が大事だ、愛している、お前は赦されている、そんな神の声を聞いて受け止めることで、私たちは過去の重荷をおろし、負い目から解放されるのだろうと思う。
神はもちろん見えない。けれども私たちの神は私たちに走って来て抱き締め首を抱えて口づけする、そんな神なのだと思う。そんな風に私たちは神に抱きかかえられ包まれているのだ。見えない、確かに見えないし感じることもできない、けれども神はこの私を、そしてあなたを大事に大事に思い包みこんでいるんだ。私たちは決してひとりぼっちではない。決してひとりぼっちにしない、私たちの神はそんな神だ。神を疑ったり信じなかったり忘れたり、時には文句を言ったり恨んだりする、私たちの神はそんな私たちをも抱きかかえ受け止めてくれているのだと思う。