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礼拝メッセージより
「主の声」 2014年9月7日
聖書:創世記31章1-13節
騙し欺され
家族なんだから、親子なんだから、兄弟なんだから、だから結局は分かり合っているとか結局はうまくいく、というようなことをいうことがある。本当にそうなんだろうか。インターネットを見ていると、自分の体験談を書いているいる人がいるが、家族の中でいろんなもめ事があったり喧嘩したり憎しみ合ったりすることがいっぱい載っている。そういうのを見ていると、家族だから、親子だから、ということで相手を大事にしているのではなくて、家族だから家のしきたりに従うべきだ、子供だから親の言うことを聞くべきだ、というように、相手が自分の思のままにすべきだというように押しつけるというようなことがあって、そのために揉めたり喧嘩したりすることがあるようだ。というかどこの家族にも大なり小なりいろんな問題を抱えていて、問題のない家族なんてないんじゃないかと思う。
アブラハム一族も揉め事をいっぱいかかえていたようだ。かなり滅茶苦茶な家族だった。そしてヤコブも人間のいろんな欲望が渦巻く家族の中で生きてきたのだろう。あるいはそれは愛を求めてというか、愛に飢えていたからこその行為だったのかもしれないと思う。満たされない思いを満たそうとして、何とかしていろんなものを手に入れようとしていたのかもしれないとも思う。
ヤコブは双子の兄エサウを騙し、兄がもらうべき祝福を横取りし、そのために兄の怨みを買ってしまい、800kmほど離れたところにいる伯父のラバンのところへ逃げた。
ラバンの家にはレアとラケルという姉妹がいて、ヤコブは妹のラケルを愛してラケルと結婚することを条件として7年間ラバンのもとで働くことになる。7年後伯父のラバンは皆を集めて祝宴を開いたが、夜ヤコブの下に連れて来たのはラケルではなく姉のレアだった。ラバンは、この地域では姉より先に妹を結婚させることはしない、なんてことを言っている。今更そんなこと言うかという気もする。そしてラケルとも結婚させてやるからもう7年働け、と滅茶苦茶なことを言うがヤコブはそれに従う。
ラバンはどうしてそんなにまでしてレアと結婚させたかったのか。そして愛されていないのに結婚することになったレアはどんな気持ちだったのか。書かれてはいないけれど、欺して結婚させるなんて無茶なことをすればどうしても遺恨を残すことになる。
その後レアとラケルは、自分達の召使いを巻き込んで、子供を持つという争いを始めることになる。ヤコブはレアとラケル、そしてそれぞれの召使いという4人によって12人の男の子と一人の女の子を持つことになる。
帰還
ヤコブが愛していたラケルにやっと子供が生まれた頃、彼はついに自分の生まれ故郷に帰る決心をする。そしてラバンに帰らせてくれと言うが、ラバンはそれを認めない。どうやらラバンはヤコブが来てから財産が増えたようで、それもヤコブがいることでそうなったということをよく分かっていたらしい。そのためにヤコブを引き留めていたかったようだ。30章では報酬を支払う、何が欲しいかというような話をして、内容はよく理解できないが、どうやら二人が腹の探り合いをして、自分が得になるような策略をお互いにしているような話しがでている。親戚ではあるけれど決して仲良く暮らしていたわけではなかったようだ。
その後どれくれい経ったのだろうか、ヤコブは故郷に帰れという主の言葉を聞く。そしてそのことをレアとラケルに説明した、というのが今日の聖書の箇所だ。
これまでこんなに一所懸命に働いてラバンの言うことを聞いてきた。報酬も勝手に変えられても従ってきた。でも神はその度に私を守ってくれ、財産も増やしてくれた、その神が故郷へ帰るようにと言っている、ということをヤコブは伝えた。
決意
ヤコブは故郷へ帰るという決心をする。しかし故郷には兄のエサウがいる。自分が欺した相手、そしてそのことから自分の命を狙っている相手がいる。そこへ帰るというのは相当苦しい選択でもある。ただ神が帰れと言ったから帰るというだけではないいろんな思いがあるのだろう。
ヤコブはその後の話しでは結局20年間ラバンの下にいたそうだ。結婚のことや報酬のことなど、ラバンに何度も欺されたようだ。それでも20年間そこにいたのは、それはやっぱり故郷には帰れないという思いが強かったからではないかと思う。兄のエサウがいる土地には帰れない、帰りたくないという思いが強かったから、ラバンに欺され、いいように使われてもそこで我慢していたんだろうと思う。その我慢が限界にきていたんじゃないかと思う。
神の声
そこに聞こえてきた主の声だったということなんだろうと思う。
主の声はどういう風に聞こえてきたんだろうか。主の声って聞こえるのだろうか。これからどうすればいいのか迷った時、こっちにしなさいという神の声が聞こえてきたらどんなにいいだろうかと思う。あそこに行きなさい、ここへ言っては駄目だ、というように聞こえたら迷うこともなくなりそうでいいなと思う。でもそんな声聞いたことはない。
ネットで説教を見ていると、今日の箇所ので、自分も確かに神の声を聞いてどこそこの教会に行った、という説教をしている牧師がいた。本当に神の声が聞こえたんだろうか。
聞こえたらいいなと思う反面、となりから囁きかけるように聞こえたらちょっといやだなという気もする。神の声というのはやっぱり耳から聞こえるのではないんじゃないかと思う。私たちがどうすべきかを命令するような言葉として、音として耳で聴くものではなく、私たちの心に喜びを与えたり、勇気を与えたり、慰めたりするもの、そういう風に心で聴くものじゃないのかなと思う。
ヤコブはラバンのことが相当頭にきて、もうやってられない、早く逃げ出したい故郷へ帰りたいという思いと、しかしそこにはエサウがいる、エサウはどう思っているだろうか、まだ命を狙っているんだろうか、エサウに会うのもつらい、しかしこのままここにいるのもつらい、そんな思いの中で悩み苦しんでいたんじゃないかと思う。そこで心の中に響いてきたのがこの主の声、神の声だったんじゃないかと思う。31章11節では夢の中で神の御使いが語ったとあり、28章でハランへ逃げていくときに主の声を聞いたのも夢の中だった。つまり目の前に神が現れてこうしなさいというようなものでもないし、耳で聞くようなものでもないのだろう。そうじゃなくて心の中に染みこんでくるような、心の中にじわじわと沸き上がるような暖かい思い、神の声とはそんなものなんじゃないかと思う。私は聞きました、というようなものじゃないような気がする。
共にいる
この主の声は故郷へ帰ろうというヤコブを勇気づけ励ましたに違いない。兄から逃げるときも、そして兄の元へ帰ろうとする時にも、「わたしはあなたと共にいる」という主の言葉が語られている。主の声に従って故郷へ帰ることを決心したというよりも、故郷へ帰る決心をしたヤコブを主は励ましたんじゃなのかなという気がする。
神は「わたしはあなたと共にいる」と私たちにも語りかけてくれている。今も共にいてくれている。私たちがどこに言っても、たとえ私たちが間違った道に進んだとしても神は「あなたと共にいる」そう語りかけてくれている。そのことを忘れないでいたい。この神の声をいつも心で聞いていこう。