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礼拝メッセージより
「かすかな希望」 2014年8月31日
聖書:創世記28章10-22節
信仰の父?
今日の聖書はヤコブがベエル・シェバを立ってハランへ向かったというところから始まる。なぜヤコブがハランへ向かったのかということはその前に書かれているが、それがとんでもない理由だった。
ヤコブは信仰の父とも言われるアブラハムの孫にあたる。ヤコブの父はイサク、イサクの父がアブラハムだ。
ヤコブには双子の兄エサウがいた。父であるイサクは兄のエサウを愛し、母リベカは弟のヤコブを愛していたという。そうとういびつな家族関係があった。今で言えば機能不全の家族というようなことになるのだろうか。父のイサクにも母の違う兄がいて、イサクの母であるサラはイサクの兄と兄の母を家から追い出したなんてこともあった。アブラハムの時代から家族の中でごたごたがあったが、次の代になってもやっぱりごたごたがあった。
ヤコブは創世記25章によるとエサウが腹が減ってたまらないと言うときに煮物と引き換えに長子の権利を奪ったと書かれている。
またヤコブは、27章ではイサクが兄のエサウを祝福しようとしていると知った母リベカと共謀して、その祝福をだまし取ってしまったと書かれている。
この祝福をだまし取るということはどういうことなんだろうか、一度祝福すると他の者を祝福できないというのはどういうことなんだろうかとずっと不思議だった。この祝福するという行為が、ただ神の祝福を祈るということであるならば、何度でも誰にでもできるはずだと思っていた。27章を見ていても神が守ってくれるようにというようなことも言っているが、27章4節でイサクがエサウに対して、
「わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい。」
と言っている。わたし自身の祝福ということはイサク自身が持っているものということのようだ。
また27章37節にはこう書かれている。
イサクはエサウに答えた。「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか。」
ここを見ると祝福というのは、神からの恵みが与えられるとか、神の守りがあるとかということだけではなく、それよりも財産を与えることなんじゃないか、むしろそっちの方が中心なんじゃないかという気がしている。神の恵みが与えられるように祈る事ならば子供達みんなにできるはずだけど、財産をこいつに与えると約束してしまったら、もう残りはないわけだ。少なくともこのイサク家族にとっては祝福とはほとんどそのまま財産のことのような意識だったんじゃないのかと思う。
エサウは、イサクが自分の財産をみんなヤコブに与えてしまったために猛烈に怒ったのではないかと思う。長男として当然自分が貰えると思っていた財産を、寸前に弟にだまし取られたわけだ。エサウは老い先短い父が死んだら弟のヤコブを殺してやると決意するが、その気持ちはよく分かる。それを知った母リベカはヤコブを、自分の兄ラバンのところへ逃がすことにする。
逃避行
そんなことからヤコブは家を出なければならなくなった。そして母の兄、ヤコブから見るとおじさんであるラバンのいるハランへと向かうことになった。ヤコブのいたベエル・シェバはカナンの南の方にあるそうで、ハランまでは800km位あるそうだ。呉から東京までいくような感じだろうか。
長子の権利も、父イサクからの祝福も財産も、自分の狙ったものを手に入れたはずのヤコブだった。親の財産を自分のものにするという約束だけは手に入れたけれど、逆にそのことで兄のエサウを怒らせてしまって、家族も財産も手放して逃げるしかなくなった。
ヤコブは生まれ故郷を去って見知らぬ土地へ向かった。おじとは言っても多分会ったこともない、どんな人かもよく知らない人を頼りに、見知らぬ土地へ向かったのだろう。いつ帰れるかもわからない、あるいはずっと帰ってこれないかもしれない、そもそも帰るべき家もあってないようなものだ。両親はいるが家族はばらばら、兄からは命も狙われていて安心して帰れるようなところではない。
希望
そんなヤコブが、ハランへ向かう途中に夢を見た、というのが今日の聖書の箇所だ。
あるところで石の枕をして眠っていたという。夜になると真っ暗闇になる荒れ野で寝ていたのだろう。いつ獣に襲われるかもしれないという恐怖もあったかもしれないが、それよりも自分の将来が一体どうなってしまうのかという不安の方が大きかったんじゃないかと思う。日中はどうにか元気にしていても、夜になり寝る時になると心の奥のしまっている不安が迫ってくるなんてことがよくある。あるいはヤコブはその夜、全く先が見えない、そんな不安に押しつぶされそうになっていたんじゃないかと思う。
しかしそんな時にヤコブは夢を見る。天まで達する階段、はしごという訳もあるしらせん階段だという説もあるようだが、とにかくそのその階段が天から地に向かって伸びていてそこを天使が上ったり下ったりしているというものだった。そして神の祝福の声を聞く、そんな夢だった。
ヤコブは、まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった、これは神の家だ、ここは天の門だ、なんて言っている。
ヤコブは何でこんな夢見たんだろうか。ヤコブが信仰心の篤い人だったからだろうか。でもヤコブが生まれてから神に対して祈ったなんてことは何も書かれていないようだ。だいたいイサクも神の祝福を祈るようなことを口にはしているけれど、自分の祝福を与えるなんて言い方をしているように、日常的に神に祈るとか、神に従うとかいうことを意識しているようには見えない。ヤコブも神と言うことは聞いてはいたんだろうけれど、そして少しは意識していたのかもしれないけれど、積極的に祈るとか助けを求めるとかそんなことはなかったんじゃないかという気がする。
しかし祝福というか財産というか、それを巡って実質家庭が崩壊して、一人で家を去るしかなくなった。これから一体どうなってしまうのか全くわからないような状況になってしまった。おじさんの所で何が起こるのかもわからない。おじさんを信頼して良いのかどうかもわからない。自分の力でどうにかできるという自信もない。そんな不安と自分の無力感を思い知らされたとき、そこに残されていた希望は神にしかなかったんじゃないかと思う。
ヤコブの信仰はここから始まったんじゃないかという気がしてきた。夢を見せられたことでかすかな希望がでてきたんじゃないか、すこし元気がでてきたんじゃないかと思う。つまりひとりぼっちだと思っていた、この先もひとりぼっちで生きていかないといけないと思っていたけれどそうじゃなかった、神がいた、神が共にいた、そんな希望を持つようになったんだろうと思う。
ヤコブがここで頼ることができるのは決して見捨てないというこの神の約束だけだったのだろう。ヤコブが持っているものは神のこの祝福の言葉、約束の言葉だけだった。しかしそれは証拠も何もない、しかも夢の中で聞いた言葉だった。何か大変なことがおこればすぐ忘れてしまうような不確かなものだ。
しかしそれは何もかもなくしてひとりぼっちのヤコブにとっては何ものにも代え難いうれしい言葉だったのだろう。その言葉からヤコブは希望を与えられたのだと思う。それはかすかな希望だったんじゃないかと思う。でもそのかすかな希望がその後のヤコブをずっと支えたんだと思う。
かすかな希望
神が共にいるというのはとてもうれしいことだ。しかし神が見えるわけではない。証拠もない。つかみどころがない。信じればいるし信じなければいないようなものだ。言ってみればあやふやな事柄だ。神が共にいてくれていることで与えられる希望もかすかな希望だと思う。神が共にいてくれるから恐れも何もなくなるというようなものでもない。でもこのかすかな希望はなにものにも消せることができない希望だ。どんなことが起こってもずっと残っていく希望だ。地中の深いところから支えているような、普段は忘れてしまうようなものだ。でも私たちが気付かないときも忘れてしまうときも私たちを支える、そんな希望なのだと思う。