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礼拝メッセージより
「揺れながら」 2014年8月17日
聖書:創世記26章15-25節
イサク
聖書の中では結構地味な存在。アブラハム・イサク・ヤコブの神と言われるが、アブラハムとヤコブが個性的であることと対照的にイサクは地味である。聖書の中の扱いも小さい。創世記の中で、アブラハムが主役となるのが12章から25章まで、ヤコブが主役となるのが27章から50章、それに対してイサクが主役となるのは26章だけだそうだ。
飢饉
26章の最初の所を見ると、イサクの時代に、また飢饉があった。この地方は時々飢饉があるらしい。そこでイサクはペリシテの王アビメレクのところへ行った。このアビメレクは21章22節以下の所を見ると、アブラハムと友好的な関係を結ぶという契約を結んでいる相手である。アブラハムの時代にも飢饉があり、その時アブラハムはエジプトへ行っている。エジプトは豊かな国だったようだ。あるいはイサクもエジプトへ行こうとしてアビメレクのところに寄ったのかもしれない。ペリシテはエジプトへ向かう途中にある、イスラエルから見ると南の方にある地域である。しかしイサクは主からエジプトへ行ってはならない、この土地に寄留するならばあなたを祝福する、といわれてペリシテのゲラルという所に住んだ。
イサクは多くの羊や牛の群を持ち放牧をするのが本来の仕事だったようだが、この土地で穀物の種を蒔いた。あまり慣れないことをしたのだろうと思うが、それでも100倍の収穫があったという。当時は30倍位の収穫が普通だったと書いてある本もあったが、かなり多くの収穫があったということらしい。神がこの土地にいれば祝福する、と言われたことがその通りになったわけだ。
黙々
しかしペリシテ人はイサクのことを決して快く思っていたわけではなかった。余所からやってきたくせに豊作になって金持ちになりやがった、ということなんだろう。イサクは父アブラハムが掘っておいた井戸をふさがれるというような嫌がらせをされる。
水があるかどうかということは死活問題である。命のもとでもある大切な井戸をふさがれてしまうというのは大変陰湿な嫌がらせである。そしてアビメレクからはここから出ていっていただきたい、なんて言われてしまう。
せっかく豊かになり力も付けてきたというときに出て行けと言われてしまう。しかしイサクはそのことでペリシテ人と争うことはしなかった。彼はゲラルの谷に天幕を張って住み、そこにあった、これもアブラハムの死後にペリシテ人にふさがれてしまっていた井戸を掘り直しそこで生活する。
ところがその井戸から水が豊かに湧き出るのを見たゲラルにいる羊飼いは、この水は我々のものだ、と言って争う。結局また別の井戸を掘り当てるとそこも取られ、また別の井戸を掘り当てる。ゲラルにいる羊飼いとイサクの羊飼いが争ったと書かれているが、戦ったと言うよりも小競り合いというようなものだったのではないかと思う。
イサクは最後の井戸をレホボト、広い場所、という名前を付けた。井戸を取られて仕方なく別の場所に移動し、最終的には広い場所を手に入れたらしい。井戸を横取りされるという屈辱を味わいながら逃げて来たけれども、結局はそこで広い土地を与えられたということのようだ。
祝福
イサクはその後ベエル・シェバに上る。そこはかつてアブラハムがアビメレクと契約を結んだ土地である。そこでイサクは神から、恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。あなたを祝福し、あなたの子孫を増やす、と約束される。
いろんな屈辱を味わいながら、それに対して刃向かうことも仕返しをすることもないイサクである。強い者に翻弄されてきたようなイサクである。しかしそのイサクを神は祝福するというのだ。恐れるな、わたしはあなたと共にいる、というのだ。
契約
たびたび掘り返す井戸はどこも水が豊かに湧き出る。
そんな有り様を見てペリシテのアビメレクたちはイサクと契約を結びに来る。追い出したくせに後になって契約を結びたいなんて、なんと勝手な言い分なんだろうか。アビメレクはイサクが神に祝福されていることに気がついた、と言っているけれど、どこに行っても井戸を発見する有り様を見ているうちに、イサクにどれだけ嫌がらせをしても弱くならない、このまま力をつけた時にどんな反撃をされるか分からない、それなら今の内に契約をしておいた方がいいと思ったということなんじゃないかと思う。
しかしその中でアビメレク側は、その時に随分勝手なことを言っている。あなたに危害をくわえてはいない、あなたのためになるように計り、あなたを無事に送り出しましたなんて言っている。井戸を横取りして追い出しておいて何もしてないなんて何という勝手な言い分なんだろうかと思う。
でもイサクはそんな申し出をも受け入れて契約を結ぶ。そして祝宴を催して共に飲み食いしたというのだ。
無力
自分の掘った井戸を横取りされるなんて時に、そのまま黙って引き下がるなんてことは普通はしない。でもイサクは何もしないで次の井戸を掘った。
そして自分に意地悪をしていた者なのに、その相手が和解を申し入れてくるとイサクは受け入れてしまう。全く人がよすぎるよ、という気がしてしまう。自分の井戸だと言って権利を主張してもいいんじゃないか、そうすべきなんじゃないかと思う。
イサクは争ことが嫌いだったのだろうか。それともよそ者である自分が争うことに勝ち目がないと思っていたのだろうか。争わないことが一番の得策だと思っていたのだろうか。
自分の掘った井戸を奪われることをやっぱりイサクも苦々しい思いでいただろうと思う。
井戸から水が出てきたと言っては大喜びし、それをふさがれたり横取りされたりしては落ち込み、ということの繰り返しだったのだろうと思う。
そのイサクを励ましたのが神だったのだろう。大丈夫だ。恐れることはない。わたしはあなたと共にいる。あなたを祝福する、と。
神が祝福を約束したが、それはイサクの励ましとなったに違いないと思う。繰り返し祝福を語ることで神はイサクを励まし、安心させようとしているということなのではないかと思う。
揺れながら
自分で運命を切り開いて願いを叶えていく、自分の望んだ通りの生き方ができればそれはするすばらしいことだと思う。しかし必ずしもそうそう願い通りにいくばかりではない。どんなにあがいても変えられないということの方が多いようにも思う。私たちはまさに風に揺れる葦のように、むこうに揺られ、こっちに揺られしながら生きている。思ってないこと、願わないことばかりが起こるのが人生だ。運命にもてあそばれているかのように右往左往するのが私たちの人生だ。
イサクは神が祝福してくれるから大丈夫だと平然と生きてきたというわけではないだろう。聖書にはイサクの気持ちは何も書かれていないけれど、掘った井戸を次々と取られていく時には敗北感と屈辱感を味わっただろうと思う。
しかしその思いに捕らわれたままではなかったのだろう。また井戸を取られた、悔しいという思いにいつまでも縛られていては前に進めない。イサクはそこで神の祝福の約束という一筋の光を感じて、多分一縷の望みを持って次の土地へと移動していったんじゃないかと思う。そして最終的には広い土地が与えらることとなったのだろう。
イサクは思うようにいかない現実にいつまでも捕らわれているのではなく、どうやら新しく目の前にあるもの、新しい状況を受け止めることが出来て人だったのではないかと思う。昔のものにいつまでも引きずられていくのではなく、流されるままに、またそこにあるものを見ていっている、新しい状況を受け止めていく、そういうことの出来る人だったのかもしれない、と思う。葦のように風に吹かれてすぐ揺れはするけれども、決して折れることはない、そんなしたたかさも持っていたということかもしれない。そういう点では凄い人なのかもしれないと思えてきた。
私たちも運命に翻弄されるかのように生きている。敗北感や無力感、あるいはさまざまな後悔、いろんな苦しい思いに押し潰されそうになりながら、打ちのめされながら生きている。自分の人生を自分で切り開く力も勇気も力もないままに、そんな自分を嘆きながら流されるままに生きている。
しかしそんな私たちといつまでもどこまでも共にいる、それがイエス・キリストの約束である。イエス・キリストは敗北感と屈辱感と無力感に打ちのめされる私たちと共にいてくれている。運命に持ち遊ばれ揺さぶられている、そんな私たちと一緒に揺れてくれているのだろう。一緒に嘆き一緒に泣いてくれているのだろう。だから揺さぶられることをことさらに恐れるのではなく、ことさらに嘆くのでもなくて、一緒に揺れてくれる、共にいてくれるイエス・キリストを見つめ、イエス・キリストにすがりついて生きたいと思う。