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礼拝メッセージより
「徹底肯定」 2014年8月10日 広島教会
聖書:マルコによる福音書14章3-9節
無駄遣い?
今日の聖書はイエスが重い皮膚病の人シモンの家で食卓に着いていたときの話だ。その時、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
ナルドというのは、ヒマラヤ山脈原産のナルドという植物の根から取った、非常に高価な芳ばしい香料、だそうだ。その後の話からするとその香油は300デナリオン以上に売れるものだったらしい。1デナリオンが一日の賃金だから、1日の給料を1万円としても300万円もするようなものだった。その香油をこの人はイエスの頭にかけてしまった。
そこにいた人の何人かが憤慨して互いに、「なぜこんな無駄遣いをするのか、300万円で売って貧しい人々に施すことができたのに」と言ったという話しだ。貧しい人々に施すことができたのに、というのはとってつけた理由で、本心はそんなことをするなら自分に分けてくれればというような気持ちだったんじゃないかと思う。
記念
それに対してイエスは、わたしに良いことをしてくれたのだ、できるかぎりのことをした、この人のしたことは世界中に記念として語り伝えられる、と言ったというのだ。イエスはこの女性の行為を絶賛したわけだ。
良いこと?
でも、壺を壊して高価な香油を頭からかける行為がどうしてそんなに素晴らしい行為なのか、昔からずっとよくわからなかった。
イエスに対して高価なものでもささげるという行為がすばらしかったのか。それとも後でイエスが言うように、埋葬の準備をしてくれたからすばらしかったのか、もうじきイエスが死ぬことを見越していることが素晴らしかったのか。でも生きている内に埋葬の準備をするということは失礼なことだ、と何年か前の聖書教育にも書いてたが、そう言われればそうだなと思った。
よく分からないまま、でも何となくこの女の人はすばらしい信仰心を持っていて、冷静に良いことをしたんだと思っていた。そしてイエスがその良いことの意味を説明した、つまりこれは埋葬の準備なのだと言ったんだ、と思っていた。この女の人はイエスに対して高価な香油で埋葬の準備をしたというすぐれた行為をした、だからイエスがそのことを褒めたんだと思っていた。
だから私たちもイエスに最高のものを献げましょう、それは良いことです、という話しなのかと思っていた。
ネットで説教を見ても、この女性のような立派な信仰心を持ちましょうとか、自分の持っているいいものを献げましょう、というようなのが多い。
絶望
そもそもなぜこの女の人はこんなことをしたのだろうか。イエスに精一杯のものをささげようとしていたのか、それこそ最高のおもてなしをしようというような気持ちで香油を頭からかけたのだろうか。そうかもしれないけれど、そうじゃないのではないかという気がしてきた。
何年か前の呉教会でこの箇所のメッセージをして、その後の分かち合いの時に、教会員の人の発言を聞いていた時に、その時どんな発言だったのか忘れてしまったんだけれど、この女性の行為は実は所謂世間一般で言う良いことではまるでなかったんじゃないかと思った。
ここからは推測になるけれども、この香油は大事に大事にとっていた高価な香油だったのではないかと思う。いざというときにはその香油を処分して金に換えるためにとっていたのかもしれない。もしかすると唯一の財産というようなものだったんじゃないかという気がする。
しかしその香油を全部使ってしまった。壺を壊してイエスにかけたわけだから、全部をかける、残しておくつもりはなかった、ということだろう。300万円を一気にぶっかけてしまうなんてことは普通の神経では出来ないことなんじゃないかと思う。そんなことができるのはよっぽどの信仰心のある人か、あるいは普通の精神状態ではいられないほど追い詰められた人のどちらかじゃないかと思う。
そしてこの女性はどんな追い詰められている状態だったんじゃないかと思った。300万円を使った後の人生をどうするかなんてことも冷静に考えられる状態でもなかったんじゃないか、財産を残しておくとか、もうそんなものはどうでも良くなっていたのではないかと思う。
何をやってもうまくいかないとき、自分の運命を呪い、あるいは自分の無能さを嘆くようなとき、滅茶苦茶なことをしてしまうのではないか。この女性の行為はそんな行為だったのではないかと思った。
だから、この女の人は冷静に埋葬の準備をしたのではなくて、なぜイエスにそんなことをしたのか、この女の人自身にもよくわかっていなかったんじゃないかと思う。つまり、彼女には絶望しかなかったんじゃないかと思う。そして絶望した彼女の心に思い浮かんだのがイエスだったのではないかと思う。イエスがどうかしてくれるとか、助けてくれるとか、そんな冷静さもなかったんじゃないか、ただイエスに倒れかかっていった、そういう行為だったんじゃないかと思った。
徹底肯定
つまり香油を頭にかけるというこの行為は、本当は「良いこと」とはとても言えないような、人の頭に香油をぶっかける滅茶苦茶な行為だったんじゃないかと思った。
そこにいた何人かが、この女の人の行為を無駄遣いだ、と憤慨したと書かれているが、まさにその通りの行為だったんじゃないかと思う。
客観的に見ればただの無駄遣い、勿体ない行為、何の意味もないような行為だったんじゃないかと思った。何をやっているんだと叱られても仕方ないというか、叱られて当然の行為だったんだろうと思う。良いことなんて何も含まれていない行為だったんじゃないかと思った。
なのに
なのに、そんな行為をイエスは、それを良いことだ、と言ったんじゃないかと思った。そうだとすると、このイエスの発言はものすごいことだな思う。
誰もが非難するしかないような行為だったわけだ。誰もが勿体ないとしか思えない行為だった。けれどイエスはその行いを全面的に受け止めたということなんじゃないかと思う。自分に倒れかかってきた人、その人自身をイエスは全面的に受け止め、肯定したということなんじゃないかと思う。
そうだとすると、イエスの言葉を聞いて一番びっくりしたのはこの女の人だったんじゃないかと思う。自分の滅茶苦茶な行為に対して、非難されてしかるべき行為に対して、反対に良いことだと言ってくれたといことになる。自分の行為を全面的に受け止めてくれて、さらにそこに、埋葬の準備なのだという意味を見つけ出してくれて誉めてくれたわけだ。
良いこと
この物語は、滅茶苦茶なことをした自分を全面的に受け止めてくれ、自分のした滅茶苦茶な行為に意味を与えたもらった、そんな物語なのではないかと思った。多分この女の人はこのイエスの言葉に支えられて生きていったんじゃないかと想像する。
自分のことを自分で嫌い、こんな自分では駄目だと自分で自分を責めている。そうやって自分を否定することが多い。今の社会は人も責めるし自分も責めることが多いんじゃないかと思う。
うまくいかないこと、思い通りにならないことが重なると、絶望感にさいなまれて自暴自棄になって、訳のわからないようなことをしてしまう私たちだ。でもそんな私たちをイエスは受け止めてくれる。そんな私たちをも全面的に肯定してくれている、徹底的に肯定してくれている、今日の聖書はそのことを伝えているのではないか。大丈夫だ、俺がついていると言ってくれているような気がしている。
イエスってすごいな、と思うようになった。