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礼拝メッセージより
「大切」 2014年8月3日
聖書:創世記22章1-19節
大切
病気になって初めて健康の大切さを知るということがある。断水して初めて水の大切さを知ったり、停電して初めて電気の大切さを知ったりする。ものの大切さってのは、失ってこそ分かるのかもしれないと思う。
家族はどうなのだろうか。家族を亡くすということはどういうことなんだろう。数年前、小学生の子どもを交通事故で亡くしたというタレントの人がいて泣き崩れていたのをテレビでみたことがある。自分の子どもがそうなったらどうなるんだろうと考えたけれど、やっぱりそこまで過酷なことを体験したことはないので、実際には想像できなかった。
家族を亡くすのは大変なことなんだろうと思う。それが自分の子どもということになると尚更なんだろうなと思う。
こども
アブラハムとサラ夫婦にとって、こどもがないということは苦しみであったのだろう。そしてきっとまわりからも、こどもはいないのか、どうして生まないのかと言われ続きてきたのだろう。こどもがないことの負い目をずっと感じて生きてきたに違いない。また当時はこどもを授かることが神さまから祝福されている証拠であるように思われていたそうなので、そのこともアブラハム夫婦を苦しめていたことだろう。
そのためにアブラハムたちはサラの奴隷であったハガルにアブラハムの子、イシュマエルを産ませるなんてこともしている。
その後アブラハムとサラにこどもが与えられると約束され、ついに産まれてきたのがイサクだった。だから彼らにとって神の約束のこども、自分達夫婦のこどもが産まれたことは願ったり叶ったりということだったことだろう。かつてあなたの子孫にこの土地を与える、という神の約束を初めて聞いたのは75歳くらいのことで、25年待ってやっとイサクが誕生したことになる。
さらに、イサクが乳離れして後、ハガルが産んだ子イシュマエルがイサクをからかっているということから、ハガルとイシュマエルを追い出してしまうことになる。結果的にはアブラハムの元にはイサクだけが残ることになる。
命令
その後神は、アブラハムにモリヤという土地へ行ってイサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい、なんてことを言ったという。神から約束され自分達夫婦にやっと与えられたその息子を、こともあろうに焼き尽くす献げ物として、つまり全部焼いてしまうという献げ物としてささげなさい、なんていうのだ。
何という命令なのか。しかしアブラハムは神に向かって反論したとは書いていない。そして次の朝早くには、命令どおりに献げ物の準備を整えて、若者二人と息子を連れて、モリヤに向けて出発してしまう。
三日目にその場所に近づくと、アブラハムはイサクに薪を背負わせて、自分は火と刃物を持って二人で歩いて行った。刃物で殺して薪に火をつけて献げ物とするのだ。イサクは、献げ物の小羊はどこにいるのかと問いかけたが、アブラハムは、小羊は神が備えてくださると答えるしかなかった。そしてその場所に着くと、アブラハムは祭壇を築きイサクを縛って薪の上に載せ、刃物で息子を屠ろうとした。
その時、主の御使いが、その子に手を下すな、あなたが神を畏れる者であることが今分かった、なんてことを言ったという。そしてまわりを見ると後の木の茂みに角をとられている一匹の雄羊がいて、それをイサクの代わりに焼き尽くす献げ物としたというのだ。
一択
息子を献げ物にしろなんて、こんなひどいこと、厳しいことを神はどうして命令するのか、と思う。そしてアブラハムはなんで無言で従ったのかと思う。あまりにひどい命令には逆らってもいいんじゃないかという風に思う。
でも基本的にアブラハムは神に逆らうということをほとんどしない。アブラハムにとっては神の命令には、従うか、従わないかという選択肢はないような気がする。アブラハムにとって神の命令に従わないなんていう選択肢はないような気がする。幼いこどもは親に逆らうことなどあり得ない。そうしないとこどもは生きていけない。それと同じように、アブラハムにとっては神に逆らうことなどあり得ないことだったのではないかと思えるほど、神に言い返すこともほとんどない。
試み
しかしどうして神はそんなアブラハムにイサクを献げよ、なんてことを言ったのだろうか。約束のこどもなのに、長い間待ってやっと生まれた子なのに。聖書には神がアブラハムを試されたと書かれている。
神はアブラハムが自分の命令を聞くかどうか、最後まで命令どおりにするかどうかということを試したということなんだろうか。
神はこんな恐ろしいことをするのだろうか。そんなことをされたらとても耐えられないと思う。
新約聖書 ヘブル人への手紙11:17-19にこんなことが書かれている。
「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。」
イサクを献げ物とする、イサクを殺すということはアブラハムの子孫を殺すということでもある。子孫を増やすという神の約束もなかったことにすること、言ってみれば神の約束も殺すということでもある。それはアブラハムにとっては未来を閉ざす、未来を殺すことでもある。それはイサクを殺すだけではなく、アブラハムが自分自身を殺すに等しいような出来事でもあったのだろう。
ヘブル人への手紙で言われているように、アブラハムが神が死人の中から人をよみがえらせる力があると信じていたのかどうかよくわからない。でもイサクを献げ物にしなくてもよくなったということは、結果的にはほとんど死にかけていたイサクも、アブラハムの子孫も、そしてアブラハムも、もう一度生き返ったようなものでもあると思う。
なぜ神がこんなことをアブラハムに命令したのか、やっぱりよく分からない。御使いはこのことからアブラハムが神を畏れる者であることが分かった、と言っているが、そのためにこんな恐ろしい命令をしたのだろうか。そうしないとアブラハムの信仰が分からなかったのだろうか。
このことから神はアブラハムに何を教えようとしたのか、伝えようとしたのか、それもよく分からない。
理由はよく分からない、けれどイサクもアブラハムも死の淵から生還したようなものだ。なくした家族をもう一度与えられた、そして自分自身の命ももう一度与えられた、アブラハムはそんな気持ちになったんじゃないかと思う。
そしてなくして初めて分かるようなイサクの大切さを知ったのではないかと思う。イサクは当たり前に生きているのではなく、そして自分自身も当たり前に生きているのではなく、自分達のこの命は神に与えられた命であり、自分達は神に生かされて初めて生きている、このことを通してアブラハムは一層感じるようになったのではないかと思う。
神はそのことを教えたかったのだろうか。それにしてもやっぱり酷い命令だなあ、と思う。