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礼拝メッセージより
「思いの外」 2014年7月27日
聖書:創世記18章1-15節
旅人
17章で主がアブラムに対して、これからはアブラハムと名乗りなさい、妻のサライはサラと呼びなさいと言われる。そしてサラによって男の子を与えるという約束を聞かされる。
その後間もなく、18章1節では主がアブラハムに現れた、と書かれているが2節ではそれが3人の人だと書かれている。主が3人の旅人となって現れたのだろうか。とにかくアブラハムはこの旅人を精一杯もてなしたようだ。
旅人をもてなすというのは当時の遊牧民にとっての習慣であり礼儀でもあったそうだ。そして失礼のないようにもてなすことは、周囲からの評価にも関わることだった、と聖書教育に書いてあった。だからアブラハムは無理強いするかのようにしてもてなしたらしい。神の使いであるというようなことを感じていたのだろうか。
約束
とにかくこの旅人はアブラハムの用意した料理を食べ、その後にサラはどこにいるのかと尋ねる。サラは天幕の中にいると答えると、彼らの一人が、来年の今頃またここにくるが、その頃サラに男の子が生まれているだろうと告げる。
それを聞いていたサラは、夫婦共に老人なのにと思って密かに笑った。ところが主は、ここで彼らの一人ではなく主になるが、なぜサラは笑ったのか、サラには来年必ず男の子が生まれている、なんてことを言って、サラが恐くなって笑ってないというと、いや確かに笑った、と言ったことが書かれている。
笑い
この時アブラハムは99歳だったようで、来年100歳で子どもが生まれるなんて言われても、それを信じろという方が無茶だろと思う。と言ってもアブラハムの生涯は175年だったとあるので今の100歳とはちょっと違う感覚なのかもしれないけれど。それにしても11節に書かれているように、アブラハムもサラも老人になっていてサラには月経もなくなっていたのに、そんなことあるわけないと思うのが正常な感覚だろう。
可能性が少ししかないようなことがきっと起こると聞かされて、それが信じられないときには、難しい顔にはなっても笑うなんてことはない。しかし可能性をまるで感じないようなことに対して、きっと起こるなんて聞かされると、逆に笑ってしまうようなことがある。そんなことあるわけないじゃないか、と思うような、あまりにも馬鹿げた話しについて、本当に起こるなんて真面目に聞かされても、笑ってしまうだろう。
サラが笑ったというのは、やっぱりあまりにも馬鹿げた夢物語としか思えなかったということなんだろうと思う。
17章をみるとアブラハムはその時にサラとの間に男の子が産まれると聞かされていた。その時にはアブラハムもサラと同じように笑って、どうやらそのために子どもの名前をイサク(彼は笑う)と名付けなさい、なんて言われている。
アブラハムが笑った時にはそれ以上追求されたとは書かれていないけれど、サラはなぜ笑ったのか、主に不可能なことがあろうか、なんて言われる。それをどうしてアブラハムに言ったんだろうか。サラが笑った理由なんてアブラハムに聞いても分からないじゃないか、と思った。けれどアブラハムにも分かるなあ、よく考えたら。アブラハムも自分達夫婦に子どもが産まれると聞いて笑った経験があるからきっと分かる。この旅人はそれを知ってるからアブラハムに聞いたんだろうか。
サラはこの会話を聞いて恐くなって、私は笑ってないと答えてしまう。自分が責められていると思ったので、そして密かに笑っただけなので誰にも知られていないはずだという気持ちもあったのだろうか。
あなたは確かに笑ったなんて言われてしまう。新共同訳では「いや、あなたは確かに笑った」というのが「主は言われた」となっているけれど、原文では「彼は言った」となっているそうだ。この彼はアブラハムかもしれないそうだ。
主が、あなたは確かに笑ったと言ったとすれば、いかにも笑ったことを責めているような気がするけれど、これをアブラハムが言ったとしたら、お前も笑ったじゃないか、信じられないのは俺だけじゃないんだ、お前も同罪だ、同罪でいてくれ、俺を独りぼっちにしないでくれ、というような気持ちが感じられる。そうだとしたら面白いな。
はじけた笑い
聖書教育ではサラが笑いを、何かがはじけた笑いと書いていった。どういうことなんだろうかとずっと分からなかった。ただそんなことあるわけがないだろうという半ば嘲りのような笑いだとしか思えなかった。
でも自分が子どもを産むという約束は、もし実現するならばものすごく嬉しいことだ。完全にあきらめてしまっていた希望に灯をともす、そんな約束だ。
自分に対してこんなこと言われたらどう思うだろうか。来年の今頃は教会は大勢の人で溢れている、自分の何かが急に評価されて、名声も上がって誰からも褒められるようになる、なんて言われるようなものだろうか。
今更自分の人生どうにもならないと諦めていることに対して、それが実現すると言われたとしたら、そんなことあるわけないという気持ちと同時に、でも本当にそうなったらとちょっと期待しつつ、でも口ではそんなことあるわけないじゃろう、とニヤッと笑いながら言いそうだなという気がしてきた。
はじけた笑いというのはそういうことなのかな。だとしたら主はサラを笑わせるたかったのだろうか。でもなぜ笑ったのか、なんて言ってるところをみるとやっぱり違うのかな。
思いの外
しかしこの神の約束というのは嬉しい約束だなと思う。ほとんど信じられないような、とても有り得ないような、でも嬉しい約束だ。
こんな約束をしてくれたらいいのになと思う。でも実際目の前に使いが現れても、こんな約束をされたらやっぱり信じられないかもしれないなと思う。
でも思わず笑うしかないようなとても信じられないようなこと、あるいは人間にはとても思いもよらないことを神が起こすことが出来る、そういうことを起こすことだってある、ということをこの物語は伝えているのだろう。
説教題は、おもいのほか、と読めるけれど、実は、おもいのそと、と打って変換したらこうなった。
私たちはこれがこうなったら、あれがこうなれば問題は解決するといろいろと考え、そうなることを祈り願う。しかし私たちの思いを超えることを神は起こすことができる、私たちの思いが及ばない、私たちでは思い浮かびもしないことは神はすることができる、そのことをこの物語は伝えているのだろうと思う。
だから私たちにはもう解決できないからといって、解決の方法が分からないからといって諦めてはいけない、諦める必要はない、神は私たちの思いを遥かに超えているんだ、だからこの神に任せなさい、どんなことが起ころうと希望を捨ててはいけない、なんだかそう言われているような気がしている。