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礼拝メッセージより
「主を信じた」 2014年7月20日
聖書:創世記15章1-6節
子ども
昔どこかで聞いたか読んだかした話だが、その人は結婚してしばらくたっても子どもができなかった。そして子どもがいないという話しになると、そうなんだということで話しが終わることはほとんどなくて、どうして子どもを生まないのか、と聞かれたそうだ。その人は妊娠しにくかったそうだが、子どもを産まない理由を説明するためには自分の体のことまで話しをしないといけなくなってしまう。そんな極めて個人的な自分の体の中のことを、それほど親しくもない人にまで話したくない、だからどうして子どもを産まないのかと聞かれることがとても苦痛で、そう聞かれる度に自分が欠陥のある人間のように思う、というような話しだったと記憶している。
今でも似たような状況があるんじゃないかと思う。子どもがいないことは正常ではないかのような見方があるような気がする。
アブラムの時代でも子どもがいないということは、神の祝福にあずかっていないことであるような考え方があったようだ。周りからも祝福されていない夫婦と見られていたのだろうし、そしてアブラム自身も自分たち夫婦のことを祝福されていない夫婦だと思っていたのだろう。
創世記15章を見ると、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ事が書かれている。その時、あなたの受ける報いは非常に大きいであろう、と言われることに対して、アブラムは、わたしに何をくださるというのですか、わたしには子どもがありません、と答えている。神が大きい報いをくれると言っているけれども、多くの人が与えられている子どもさえも与えられていないのに何を言っているのか、という気持ちがあったのだろう。子どもさえいないのに、報いは非常に大きいなんておかしいじゃないか、という気持ちだったんじゃないかと想像する。子どもがないから、今こうやって手許にある財産も、家の僕が、奴隷が引き継ぐことになっているんですよ、と言っている。言わば神に対する恨み節を言っているような気がする。
それほどに子どもがいないという現実はアブラム自身にとっても苦しみ、重荷でもあったのだろう。
約束
でもそんなときに神はアブラムに、あなたから生まれる者が跡を継ぐという。もうかなり歳を取ってるのに子どもが産まれなかった、なのにこれから産まれてくる子どもが跡を継ぐなんて言われるわけだ。そして天を仰いで星を数えることができるなら数えてみるがよい、と言われる。
当時は今よりもよほど多くの星が見えていたことだろうと思う。星をじっと見ているとどんどん沸き上がるように見えてくる。なかなか数えられない。地球から人間の目で見える星の数は7500個くらいだそうだ。
あなたから生まれる者が跡を継ぐ、そしてあなたの子孫がこの星のようになる、と言うのが神の約束だ。しかし目に見える現実は、子孫はまだ一人もいないのだ。
嬉しい約束
神の声に従って故郷を出てきたアブラムだった。飢饉の時にエジプトに行き、いざこざもあったようだが、財産も増えてきていた。いろんなものをいっぱい手に入れてきたけれど、一番欲しかったなんじゃないかと思う子どもだけは生まれなかった。一番欲しい子どもが生まれる、そして子孫が数え切れなくなる、という約束はうれしい約束だ。本当にそんなこと起こるならそんな嬉しいことはない。アブラムはそれを信じた。素直というか単純というか。案外嬉しいことを言われてそのまま信じた、ということなのかも。
そして主を信じたことを、彼の義と認められた、と言う。義と認められるということは正しいことだ、それでいいのだということのようだ。
アブラハムは信仰の父であるというような言われ方をよくする。とても信じられないようなことでも信じてきた人なんじゃないかと勝手に想像していた。神は時には厳しい命令を出すようなこともあったようだ。けれども神の約束は実は信じたくなるような約束みたいだ。神から示す地に行けというけれども、その時の約束はあなたを祝福するというものだった。そして今日のところでは子どもが跡を継ぐことになる、子孫は星の数のように数え切れない程多くなる、と言う約束である。
お前を祝福すると言われることもうれしいことだし、ずっと期待している子どもが生まれるということもうれしいことだ。そんなうれしいことを約束されて、それを信じたことを義と認められたというのだ。そして嬉しい約束を素直に信じることを、神はそれでいい、それは正しいことだ、と言われているのかもしれない。苦しいことを言われてそれを信じて従うことは大変難しいことだけれども、嬉しい約束をしてくれたら誰でも信じたくなる。神を信じるということは実はすごくうれしいことじゃないかとも思う。
勿論、そんなことあるわけない、納得できないと想う気持ちもある。厳しい現実を目の前にすると、単純に神の約束を信じられない。アブラムも子どものことを考えると途端に元気がなくなる、途端に寂しくなってしまうというような状況だったんではないかと思う。本当に子どもが与えられるんだろうかと思うこともあったんじゃないかと思う。本当はそんなことないんじゃないかと諦めるような気持ちになったり、でも本当にそうなったらどんなにうれしいだろうかという、わくわくする気持ちになったり、そういう気持ちで揺れていたんじゃないかと思う。でも本当にそうなったらどんな嬉しいだろうという風にアブラムに元気を与える約束でもあったのだろう。
主を信じた
アブラムは主を信じた、と言う。主の約束を信じた、ではなく主を信じたとなっている、と誰かが書いていた。ただ主が言うような出来事が起こることを信じたというだけではなく、主そのものを信じたというのとはちょっと違う、ということだ。自分の子孫が星の数ほどに増えるということを信じたということもあるだろうけれど、それだけではなくて、神が自分の計り知れないところで自分を守ってくれているということを信じたということだったんだろうと思う。子どもが与えられるかどうかというだけではなく、自分が会うこともないであろう子孫のことをも約束するほどに、神は大きな存在であるということをアブラムは知った、そして圧倒されたということなんじゃないかと思う。
実際にそんなことが起こるのか、アブラム自身にはっきりと分からないけれど、一片の疑いもなく信じることはできないけれど、この神が自分のことを見つめていてくれているということ、自分に関わってくれていること、そのことを知った、だから主を信じたと書かれているのではないかと思う。主はそれを彼の義と認められたというのは、神がそれでいいんだと言われたということではないかと思った。
神を信じるということは、信じられない気持ちや、疑う気持ちを全部捨ててなくすことではないだろうと思う。信じられない、本当だろうかと思う気持ちをいっぱい持ちつつ、後は神に任せる、神がいいようにしてくれるだろうと神に任せること、それが神を信じるということなんだろうと思う。だから神が自分の思い描く通りのことをしてくれるはずだと思うことではなく、具体的にどうなるかは分からない、けれども星の数を数えよというような偉大な神が自分を守ってくれているから、支えてくれているから、導いてくれているから、この神に任せようと思うこと、それが主を信じる、神を信じるということなんだろうと思う。
アブラムは主を信じたと書かれている。案外主を信じたことで、逆に子どもがうまれるかどうかというこだわりから解放されたんではないかと思う。主の守りの中にあることを知ることで、子どもが産まれない自分達は不幸なのだという気持ちから解放されたんじゃないかと思う。
神が私たちにこれから何を与えられるのか私たちにはわからない。分からないけれども、神は私たちを守り支えてくれる、最善を行ってくれる。だから私たちもこの神を信じて、主を信じていこう。