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礼拝メッセージより
「移住命令」 2014年7月6日
聖書:創世記12章1-9節
新天地
新しい土地へ行くということは大変なことだ。知らないところへ行くという不安もある。それと同時に、今までいたところから離れなければならないということでもある。それまで持っていたいろんなつながり、人間的な関係もあるだろうが、そんなつながりを切っていかないといけない。今ならば世界の裏側にいても一日か二日あれば行けるみたいだ。会いに行かなくても連絡を取る手段もいろいろとある。
旧約聖書の時代には電話もないし、メールを送ることもできない。何百qも離れた所へ行ってしまうともう二度と会えないかもしれいない、というような状況になる。
そんな風に新しい所へ行くということは、それまで築いてきた生活の基盤をなくすようなものでもある。そして新しい土地で新たに基盤を作り直さないといけないわけだ。木を植えかえるようなものだろうと思う。木を植えかえる時は、地中に張っている根っこをある程度切らないといけない。そして植えかえた新しい土地で新しい根を張っていく。うまく根が張らないと枯れたり倒れたりするようだ。旅立つということは、根っこを切って、新しい土地でもう一度根を張っていかないといけないという大変ことだ。
約束の地
アブラムは神から、わたしが示す地へ行くようにという命令を受ける。でもどこが示す地なのかという説明はここには書かれていない。ただ11章の最後の所を見ると、父親のテラと妻のサライ、そして甥であるロトと一緒に、カナン地方へ向かったと書いてある。しかしハランまで来たところにとどまっていて、父親のテラはハランで死んだ、と書いてある。
そのハランにいたときに受けた命令が、あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい、というものだった。その神が示す地というのがカナンということのようだ。アブラムがカナンのことをどれほど知っていたのか分からないけれど、そこに移住するわけで相当なな心配があったに違いないと思う。
そこへ自分の妻と財産と、そして甥と一緒に出発する。全財産を携えて出かけた。ただ旅に出るというのではなく移住する、引っ越しするわけだ。荷物を多く抱えての出発だったのだろう。
ところで、12:4にはハランを出発した時アブラムは75才だったと書かれている。11章では、父親のテラが70歳の時にアブラムが生まれた、そしてテラは205歳でハランで死んだと書かれているいる。そうするとアブラムがカナンへ向かった時、父親のテラは145歳ということになり、まだ生きているということになるけれど、ところが新約聖書の使徒言行録7:4ではステファノが説教の中でテラの死後にアブラムが出発したと言ったと書かれている。どっちなんだろう。
祝福
会社の転勤の命令みたい。転勤であれば、行った先に自分の椅子がある。待ってくれている人もいる。しかしアブラムにはそこで待っている人はいない。歓迎してくれる人もいない。ただよそ者として行くわけだ。おかしな土地だったら、命の危険にもさらされるかもしれないわけだ。なのに神は示す地へ行けと言う。アブラム自身の中にも多くの心配があったことだろう。
しかし神の命令はただ命令だけではない。ただ行け、というだけではない。命令と一緒に祝福の約束がある。しかし祝福するという約束と、いろんな不安との狭間でアブラムの心は揺れたのではないか、両方の思いに苦しんだんじゃないかと思う。
森有正という人の「アブラハムの信仰」という説教の中にこんな言葉がある、と誰かの説教に書いてあった。
「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅をもっております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間がだれ憚らず喋ることの出来る、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことは出来ない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことは出来ない。」
アブラムはシケムというところのモレの樫の木まで来た。そこはカナン人たちの宗教活動が行われていた所だそうだ。つまりアブラムは異なる神を礼拝する民の所へ行った訳だ。しかしそこで神はこの土地をあなたの子孫に与えると約束する。
神の命令に従って行った先が、異教の神々を礼拝する民のまっただ中であったということだ。そこはパラダイスではなかった。みんながアブラムを歓迎したわけでもないだろう。そこでアブラムはどんなことを考えたのだろうか。祝福がどこにあるのかということをいつも考えていたのではないかと想像する。
アブラムはそこで祭壇を築き、主の御名を呼んだという。それは不安があったことの裏返しだったんじゃないかと思う。信仰心が篤かったから呼んだとかいうことよりも、神を呼ばずにいられなかったのではないかという気がする。
神の命令に従ってここまできた。しかしアブラムの心の中にはぬぐえない心配が渦巻いていたのだろうと思う。今後どうなるか、という不安でいっぱいだったのだと思う。アブラムは神に祈るしかなかったのだろう。祈るというよりも神を呼んだのだろう。冷静に淡々と祈れるような心境ではなく、神よ、主よ、と呻くように呼んだのではないかと想像する。
その後アブラムはいろんな大変なことも経験する。神の約束はなんだったのかというような思いにもなったのではないかと思う。
神の祝福は、自分が思い描くような夢物語が現実に起こるということではなく、あるいは何もかも思い通りにできるような力と知恵を持つというのでもなかった。大変なことも、思うようにいかないこともいろいろと起こっている。いったいどこに祝福があるのか、どこが祝福なのかと思うようなことばかりだったのではないかと思う。
しかしだからこそアブラムは神の名を呼んだのだろう。もうどうしていいか分からない時、不安で不安でたまらない時、アブラムは神の名を呼び続けたんじゃないかと思う。
祭壇を築いたということが書かれている。しかしそれは淡々と祭壇を築き、淡々と主の御名を呼んだのではなく、呻きながら神に呼びかけたということなんじゃないかと思う。
あなたを祝福する、この土地を与える、神のその約束にアブラムは縋り付いていたんじゃないかと思う。不安をいっぱい抱えながら、でもその約束を何度も何度も思い返しつつ生きていたんじゃないかと思う。
苦しみのただ中で、泣き出しそうな、逃げ出したくなるような心の片隅で、私たちも神と出会っていくのだろうと思う。そこに神はいてくれている。そこで神は私たちに語りかけてくれている。そこから神は私たちを支えてくれているのだろう。その神の言葉に縋り付いて生きていきたいと思う。