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礼拝メッセージより
「いや」 2014年6月29日
聖書:創世記4章1-18節
豪邸
先日広島に行った時、丁度寄ったコンビニの向かいに大きな家があった。家の前にはいい車が停まっていて、フェンスの門は自動で開くようなになっているみたいだった。コーヒーを飲みながら、お金持ちはいいなあと悲しい気持ちになっていたけれど、でも夫婦仲は悪いかもしれない、だったらうちの方が勝ってるかもしれないなんて考えていた。そんなことを思いつつ、なんで夫婦仲まで競争してるんだろう、そういえばいつも何かにつけて競争して勝ってると思えれば喜び、負けたと思うときは落ち込んでいるなあと思った。
周りと比べて競争ばかりしているとなかなか幸せにはなれないような気がする。
献げ物
アダムとエバにカインとアベルという兄弟が生まれた。弟のアベルは羊を飼う者となり、兄のカインは土を耕す者となったという。二人は共に神に献げ物をしたという。主のもとに持ってきたということは、神はアダムとエバをエデンの園から追い出したのに、その神自身がエデンの外にいる人間のところへと出てきたということだろうか。悪いコトしたから出て行け、と言っておいて、放っておけなくて心配になって後から追いかけているみたいだ。
それはさておき、二人とも主に献げ物を持ってきた。カインは土の実りを献げ物とした。アベルは羊の群の中から肥えた初子を献げ物にしたという。
主はアベルの献げ物には目を留めたのに、カインの献げ物には目を留めなかったというのだ。なんというひどいことをするのだろうと思う。いったい何なのか。なんでそんな差別をするのだと思ってしまう。
これって兄弟を仲たがいさせるにはどうしたらいいかという見本なんじゃないのかと思う。
カインは激しく怒って顔を伏せたという。そりゃ怒るよ。せっかく献げ物を持ってきたのに知らん顔をされたら怒る。
なんで神がカインの献げ物に目を留めなかったのかということはわからない。理由も書いてない。アベルは肥えた初子だったけど、カインは良い物じゃなかったからじゃないか、なんていう説明を聞くこともある。新約聖書のヘブライ人への手紙11:4には、「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました」と書かれてはいる。けれどもそれも一つの想像に過ぎないし、少なくともそうだとは聖書にも書いてない。
あるいは、申命記の7:7には、なぜイスラエルの民が神に選ばれたのかという理由が書かれている。そこには「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と書かれている。神が一番小さく弱い者を選ぶということは他にも出てくるけれど、そういうことだったかもわからない。或いは神はいつも弟の方を大事にするなんていう説もあるらしいけれど。
兎に角理由はここには出てこないのだ。神のみぞ知る、ってとこだ。人間に解ることはただ神がそうしたのだ、ということだけだ。人間にはその理由はわからない。
カインにもその理由が分からなかった。理由が分からないからこそカインは怒ったに違いない。理由が分かれば、そして納得できる理由があるならば、例えば弟は一番に良い物をささげたのに自分は一番ではないものをささげたからだ、という理由ならばカインだって納得出来ただろう。納得できる理由が見あたらないというか理由も言って貰っていない、なのに神は自分の献げ物には目を留めず、弟の献げ物にだけ目を留めた、だからカインは怒ってしまったのだ。
嫉妬
理由も分からずどうして弟ばかり優遇されるのか、という嫉妬がカインの心に芽生えたのだろう。そう思うのも尤もだと思う。そりゃ怒るよなあ。
しかし主は「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのかもしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」なんて言うのだ。それはないよと思う。アベルの献げ物にだけ目を留めておいて、カインの献げ物には目もくれなかったのに、その上この言いぐさはないんじゃないの、あんまりだよと思ってしまう。
問いかけ
人生は納得できないこと、理解できないこと、不条理が一杯だ。正直者が馬鹿を見ると思えるようなことも現実にはいっぱいある。どうしてあんないい人が苦しむのか、どうしてこんな人が早く死ぬのか、あるいは逆にどうしてあんな奴がいい思いをするのか、どうしてあんな奴がいい地位にいるのか、なんてことがいろいろある。そしてどうして自分はこんなにしんどい思いをしなければならないのか、どうして自分がこんな病気にならないといけないのか、それは切実な問いかけだ。どうして自分が、自分だけがこんな辛い人生を歩まねばならないのか、それはとても重い疑問である。
どうして自分の献げ物には目を留めてもらえないのか。どうして弟の方ばかり優遇されるのか、こいつさえいなければ、と思うようになることもうなずける。
語りかけ
怒るカインに向かって主は語りかけている。「どうして怒るのか、、、」。かなりひどい言い方だなあとは思うけれども、とにかく語りかけている。しかしカインはそれに対して答えることはしない。怒りを内に秘めたまま、その怒りをひとかけらも外にこぼすまいとしているということでもあるかのように無言のままである。そしてアベルを野原に連れ出して殺してしまう。
本来カインの怒りの対象は神に向けるべきものであったはずなのに、その怒りの矛先は弟に向けてしまい、ついには弟を殺してしまう。兄弟に対して、また兄弟だけではなく、誰かに対して憎しみを持つこと、嫉妬すること、それはやがて殺人へとつながっていく第一歩であるということらしい。
そうするとまた神はカインに語りかける。「お前の弟アベルはどこにいるのか」神はカインがアベルを殺したことをすでに知っている。なのに弟はどこにいるのか、と聞くのだ。
本質
カインの怒りの根本は神が自分の献げ物に目を留めないで弟の献げ物に目を留めたということにあったはずだ。しかし結局は最後までその根本的な問題に対する問いかけをすることなく弟を殺してしまう。そしてさらにその殺人を隠そうとする。
弟を殺しても根本的な問題、何故神が自分の献げ物に目を留めなかったのかということは解決するはずもないのに、そうしないではいられないほどに怒りは大きくなってしまっていたのだろうと思う。
しかしこのカインの気持ちがとてもよく理解できる。カインの姿は人間の本質を現しているということでもあるのだろうと思う。
何故
不条理な世界である。どうして私だけがこんな思いにならないといけないのか、どうして私ばかりがこんなに苦しまないといけないのかと思うことがいっぱいある。そしてまわりに対して、特に弱い者に対して怒りをぶつける、それが私たちの現実だ。
それもこれも神がしたことなのだ、と納得できればいい。納得できる事ならば大した問題はない。しかしそうそう納得できない。どうしてだ、何故なのだ、という思いが沸き上がってくる。神を信じているのにどうしてこんなことになるのだ、ということもいっぱいある。
あの人はあんなにうまくいっているのに、どうして自分は駄目なのか、あいつはあんなに金持ちなのにどうして自分は貧しいのか、そんな風に周りと比較することで苦しみは倍増するような気がする。あるいは比較する対象があるからこそ苦しくなるのかもしれないと思う。
カインはそんな思いに捕らわれたままだったようだ。そしてそのどうしてあいつばかりという気持ちを抱え、その思いが兄弟に対する憎しみに変わっていったのだろう。どうしてか、なぜなのか、それを神に問いかけることも、文句を言うこともしなかった。神に文句を言う代わりに、自分よりも優遇されているように見える弟にぶつけたのだ。自分の思いを神にぶつけなかったことで、弟にぶつけるしかなくなったのではないかと思う。
何とも悲しい物語である。
負いきれない罪
弟殺しの罰を受ける、ということを神に聞かされて初めてカインは自分のしたことの大変さに気づいたようだ。重すぎて追いきれないほどの罪であることを、そして自分が神から離れてしまうことで命が危険にさらされることを自覚する。嫉妬にかられていたときには分からなかったその罪の重さに、神から指摘されて初めて気付いた、ということなんだろう。
守り
しかし殺人を犯したカインにも、神は語りかけた。弟はどこにいるのだ、あなたは何をしたのだ、と問いかけている。
神はカインが地上をさまよい、さすらう者となるという。しかし神は、だれもカインを撃つことのないようにしるしをつけられたというのだ。怒り、嫉妬に狂い弟を殺してしまったカインを守るというのだ。
創世記は第1世代であるアダムとエバが神の命令に背いたと語り、第2世代では殺人を犯したと語る。人間というのは造られた最初から罪にまみれていたと言いたいかのようだ。
しかしそんな罪を犯した者にも、神は尚も語りかける。弟はどこにいるのか、何をしたのかと神は問いかけ続けておられる。間違い、失敗をする、殺人をする私たちをも尚も見捨てない、私たち自身に間違いを気付かせようとする神、尚も声をかけ、関わり続けようとする、それが私たちの神なのだと言いたいようだ。
いや
カインは弟を殺したことで神に追放されさすらう者となれば、自分に出会う者は自分を殺すだろうと言った。こんな自分は神に見放される、そうしたら生きてはいけないと言ったのだと思う。しかしそれに対して神は、いや、そうではないと言った。そしてカインを守るしるしをつけたと言う。
あの人達は神に祝福されている、でもこんな駄目な自分は、こんな罪深い自分は神に見放されるに違いない、もう見放されているんだ、周りからも見下されるに違いない、もう未来はない、神も守ってはくれない、、、。私たちはそんな風に勝手に思ってしまう、勝手にそう判断してあきらめてしまうことがある。
でも神は、いや、と言っている。いやそうではない、あなたはそう思うかもしれないが私は諦めない、私は見捨てない、どこまでも関わっていく、いつまでも一緒にいる、神はそう言われているのだと思う。
自分には何も出来ない、何をする力も能力もないと言う私たちに向かって神は、いやそんなことはない、あれもできる、これもできるじゃないかと言われているのだろう。
また自分には何の価値もない、生きる価値もないと言う私たちに向かっては、いやあなたが大事だ、あなたは大切だ、あなたが大好きだと言われているようだ。
自分を否定する思いにとらわれることが多いけれど、でも神は、いや違い、いやそんなことはない、と叫んでいるように思う。